震災に乗じる「IFRS反対派」

 金融庁がようやく重い腰を上げる。2012年に上場企業に使用を義務付けるかどうか判断することになっている国際会計基準IFRSの扱いについて、6月末に企業会計審議会を開催することを決めた。昨年後半から経済産業省や一部の企業人を中心にIFRSの強制適用に反対する動きが加速しているが、一方で大半の上場企業は強制適用を前提に準備作業に入っている。この混乱を招いた一因は、金融庁が決断を先延ばしし、議論すらしてこなかった点にある。
 IFRS反対派の動きを中心にまとめたFACTA今月号掲載の拙文を、編集部のご厚意の下に再掲します。FACTAオンラインでも読むことができます。 http://facta.co.jp/


FACTA 2011年6月号 連載[監査役 最後の一線 第2回] by 磯山友幸(経済ジャーナリスト)

上場企業の決算とは何のために行うのか。東日本大震災が起きて、またしても「会計基準」のあり方が問い直されている。

日本は長年にわたり、国際会計基準IFRS)を導入すべきかどうか、議論を繰り返してきた。ようやく2010年3月期決算から、希望する企業が自主的にIFRSを使う「任意適用」が認められ、12年をメドに全上場企業に強制適用するかどうかの方針が決められる段取りになっている。強制適用となれば15年にも実施されることから、世の書店などではIFRS本が所狭しと並べられ、経営者や経理担当者が準備に追われている。

今年に入って金融庁は、来年の方針決定に向けた準備作業に動き始めていた。そんな矢先、東日本大震災が起きたのである。

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案の定というべきか。IFRS反対派の間から、震災を理由にした導入延期論が噴出している。田中弘・神奈川大学教授は、週刊エコノミスト誌に「復興努力を最優先にIFRS導入を先送りせよ」と題する一文を発表。一部の製造業幹部などが同調している。田中教授は根っからの時価会計反対論者で、その主張は長年、首尾一貫している。欧米が主導する会計基準を早急に受け入れる必要などない、というのが基本的な姿勢で、震災を機に持論を展開しているに過ぎない。

同調している企業人の多くも「IFRSを導入すると、決算数値に大きな影響を受ける」として震災前から反対してきた人が中心だ。「会計基準の変更は企業に負担をかけるので、震災後のこの時期に導入すべきではない」というのは一見、理にかなった主張だが、大多数の企業がそれを求めているという話ではない。

「企業の負担が大きい」というのを理由に反対を煽ってきたのは、実は経済産業省の担当部局だ。同省が設置した研究会である企業財務委員会が反対勢力の牙城になってきた。

委員長の佐藤行弘・三菱電機常任顧問は、議員会館霞が関の幹部官僚、大手マスコミを回ってIFRS導入反対を説いてきた。「欧米が主導するIFRSの受け入れは国益を損なう」という説明に、国会議員や官僚、学者の中には導入反対論に与する人も出ている。

その端的な例が、昨年末にシンクタンク東京財団が発表した「日本のIFRS対応に関する提言」だ。岩井克人国際基督教大学客員教授が名を連ねた提言は過激だ。

IFRSの強制適用は不要」だと断定し、来年をメドに判断することになっている強制適用の決定スケジュールを「直ちに白紙に戻すべき」だと主張している。岩井氏は『ヴェニスの商人資本論』や『貨幣論』など、資本主義の本質を巧みな比喩で浮かびあがらせる著作で知られた東京大学経済学部の元教授で、小林秀雄賞受賞の『会社はこれからどうなるのか』などで企業論も論じたが、会計基準についてはほとんど発言してこなかった。提言をまとめた研究会を担当した同財団の政策プロデューサーの佐藤孝弘氏は経産省出身の元官僚。このため役所との“連携”を指摘する声が上がっている。

東京財団の提言では「会計基準は国家戦略の一つだ」とし、「各国が会計基準設定の主導権をめぐって争い、基準の内容を少しでも自国に有利なものとすべくしのぎを削っている」と指摘している。この認識は正しいだろう。ところが、結論は「白紙に戻してもう一度、本質を徹底的に議論せよ」という薄っぺらな“攘夷論”に終わっている。

住友商事の特別顧問で、IFRS財団の評議員を務める島崎憲明氏は「日本の主張をIFRSに反映させるためにも、日本はIFRSを導入するという方針を明確に示すことが大事だ」と言う。使うかどうかも分からない国の主張をまともに聞くはずがない、というわけだ。

会計基準が「正しいか否か」は議論のあるところだ。商取引などの実態を正確に帳簿上に表すことができるかどうか、会計基準は常に見直され、進化を続けている。その場合、AとBという基準のいずれがより正しく実態を示すかが論点であって、Aという基準をBに変えた場合、損失が大きくなるからAのままでよい、という主張は通らない。

だが、現実には「影響が大きいのでIFRSには反対」という大企業が少なくない。経産省が反対姿勢を取ってきた背後にも、こうした大企業の動きがある。一般にはグローバル企業と目されている大手電機メーカーや自動車会社、鉄鋼会社などにも、「影響が大きい」からとIFRS導入に難色を示しているところがある。世界の投資家の目を怖れてか、さすがに表立ってIFRSに異を唱えるようなことはしないが、反対論を側面支援している。

なかには、東日本大震災で抱えた多額の損失を表面化させないために、IFRS導入の延期や時価会計・減損会計の停止を求める動きもある。

そこで問い直されることになるのが、上場企業の決算とは何のためにあるのか、という根源的な問題だ。一義的には株主や投資家に「会社の実態を正確に知らせる」ことだろう。だが、開示された情報の利用者には株主だけでなく、債権者や取引先、従業員なども含まれるのは明らかだ。

それだけではない。企業経営者にしても、会社の実態が正確に把握できなければ、正しい経営判断などできようはずはない。経営環境が厳しい時ほど経営者は実態をより良く見せたいという欲求にかられるものだ。伝統的な粉飾決算が起きてきたのも、経営環境が激変した際が多かった。より良く見せたい心理からIFRSを忌避するのは経営者にとって自殺行為ではないか。

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会計基準にはもう一つ実利的な意味がある。投資家から資金調達する際に“使える”かどうかだ。東日本大震災を機に、国際的に通用するIFRSでの情報開示の重要性が増すと考えるべきではないだろうか。

震災からの復興に向けて、日本全体では巨額の資本が新たに必要になった。政府支出だけでも数十兆円にのぼることは明らかだ。この突然生まれた資金需要が、企業の資金調達環境を今後、激変させる可能性が高まっている。カネ余りが続き、いつでも低利で潤沢な資金が借りられると思っていたら間違いなのだ。

「上場企業といってもグローバル展開していない中堅企業の当社にIFRSが必要なのだろうか」という声をしばしば耳にする。だが、リーマン・ショック直後、短期金融市場から資金が瞬間蒸発した際、資金を調達できたのは一部の大企業だけだった。中堅・中小企業が思うように資金を取れないという事態は、いつ起きても不思議ではない。そうなれば、中小企業でもアジア市場など海外でファイナンスをする必要性が出てくるかもしれない。その際、日本基準に従った決算書だけで外国人投資家に信用してもらえるだろうか。

東日本大震災後に企業経営者が取るべきスタンスは、危機を口実に実態を覆い隠し、安易な道へと流れていくことではないはずだ。企業経営にとって会計基準とはどうあるべきか、真摯に考えてみる時だろう。