中国のマクロ経済が専門ながら、『「壁と卵」の現代中国論』『日本と中国、「脱近代」の誘惑』で経済を軸に思想や社会問題を含めた形で中国と日本を論じ、『日本と中国経済』(ちくま新書)で日中の経済交流と中国の現代経済史を分析した著者が、現在の中国経済が直面している重要な課題を論じたもの。

 経済学の概念を使ってかなり本格的に論じているために、前半の章を中心にやや難しく感じる部分もあるかもしれませんが、本格的に論じているからこそ、いまこの瞬間の問題点だけではなく、中長期的な問題というのも見えるようになっていて非常に読み応えがあります。中国経済に対して、ある程度の見通しをもっておきたいという人には必読の本といえるでしょう(ただ、序章〜第2章はテクニカルな部分も含むので、経済学の概念に慣れていない人は第3章から読んでもいいかも)。

 目次は以下の通り。
序章 中国の経済統計は信頼できるか
第1章 金融リスクを乗り越えられるか
第2章 不動産バブルを止められるのか
第3章 経済格差のゆくえ
第4章 農民工はどこへ行くのか―知られざる中国の労働問題
第5章 国有企業改革のゆくえ―「ゾンビ企業」は淘汰されるのか
第6章 共産党体制での成長は持続可能か―制度とイノベーション
終章 国際社会のなかの中国と日中経済関係

 序章では中国の経済統計の問題がとり上げられています。中国のGDPは水増しれているという主張をよく目にしますが、実際に中国の経済統計は政府の都合ででっち上げられた数字なのでしょうか?
 2001年にトーマス・ロースキーが、1998年の中国の公式統計が7.8%の成長を記録したにもかかわらずエネルギー消費量の統計が-6.4%だったことの矛盾を指摘しました。この中国のGDPを他の指標から類推しようとする試みは、発電量や貨物輸送量などに注目する「李克強指数」にも引き継がれています。
 ただし、これらの指数が常にGDP以上の正確な経済の実態を映し出しているとは限りません(例えば李克強指数は公共事業に過剰に反応しやすい(10p))。また、98年はGDPの推計方法が変更された年でもあり、独特の難しさが伴うのです。

 基本的に中国のGDPにおいて誤差が生まれるポイントは、サービス部門とGDPデフレーターの推計にあるといいます。サービス部門の推計の難しさについてはダイアン・コイル『GDP』でも指摘されていたことで、世界的に共通する問題でおあります。
 ただ、地方政府の発表するGDPに関しては人為的な水増しが行われていた可能性が高く、中央でも国家統計局の職員が統計データを不正に操作して利益を得た疑惑が報じられるなど、中国の統計には「人」の問題も絡んでいます(21p)。
 しかし、必要以上に中国の統計のデタラメさを指摘することはかえってデタラメな議論に落ち込むことになるのではないかというのが著者のスタンスです。

 第1章は、2015年夏から2016年初頭の上海の株価指数の急落と人民元の対ドル基準値の切り下げなどにみられる中国経済の変調を、人民元に国際化によって生じた「トリレンマ」によって説明しています。
 著者は中国経済の変調の背景は、企業などの過剰債務によって経済が目詰まりを起こす「デッド・デフレーション」があると見ています。これは日本のバブル崩壊後にも見られた現象で、デフレにおいては売上が減るにもかかわらず債務の負担は減らないため投資などが抑制され、さらなる不況やデフレを呼びこむ状況です。

 このデッド・デフレーションへの処方箋としては、高債務企業を倒産させてでも債務を整理する「精算主義」と、金融緩和によって企業の実質的な債務の削減をはか「リフレ政策」があります。
 FRBのバーナンキ議長や日銀の黒田総裁は後者のリフレ政策をとったわけですが、中国では人民元の価値を固定しているためにこの政策をとることが難しくなっています。
 金融緩和を行えば人民元は売られますが、これに対して中国では人民元のレートを守るために中国人民銀行が元買いの介入を行います。この介入は国内に流通する元を中央銀行が回収することを意味するので、金融緩和の効果は減殺されてしまうのです。

 ロバート・マンデルは、「独立した金融政策」「通貨価値の安定」「自由な対外資本取引」の3つの政策を同時に実現することはできないという「トリレンマ」が存在すると主張しました。
 中国は長年、「自由な対外資本取引」を規制することで残り2つの政策を実現してきましたが、近年では人民元の国際化に伴って中国においても資本取引が活発になってます。結果として、「通貨価値の安定」と「自由な対外資本取引」を実現する代わりに「独立した金融政策」が犠牲になるという状況が生まれつつあるというのが著者の見立てです。
 
 第2章は不動産バブルの問題。中国では投資が経済成長を牽引しています。投資はさらなる経済成長のために必要不可欠なものですが、中国では今世紀に入ってから経済成長に対する投資の寄与率が平均して50%を超えており、80%を超えた年もあります(63p図2-1参照)。
 中国は「資本の過剰蓄積」といえる状態になっており、その資本は都市開発などの固定資産に向かっています。こうなると心配されるのが不動産バブルです。中国の不動産価格は今世紀に入ってずっと上昇傾向にあり、特に2016年以降は金融緩和の影響もあって上昇が目立ちます(71p図2-2参照)。

 しかし、中国の不動産市場は特殊です。あくまでも土地は公有が建前であり、土地に関してはその使用権が取引されているのです。この土地の供給をコントロールするのが地方政府です。
 地方政府は地元の経済発展につながる工場用地は安く供給し、住宅に関しては高い値段で供給するというような価格差別を行なっています(73p図2-3参照)。中国の不動産市場を見るときには、このようなゆがみを頭に入れる必要があるのです。
 また、土地の供給と開発は地方政府の重要な収入源となっており、地方政府が「融資プラットフォーム」と呼ばれるダミー会社を使って開発資金を調達し、開発を行っています。ここには「影の銀行」と呼ばれるノンバンクから資金が流れ込んでおり、これらは不動産価格が下落すれば不良債権化する恐れもあります。
 地方政府の「土地財政」からの脱却は避けることんできない課題ですが、不動産税などの導入は不動産市場を一気に冷え込ませて巨額の不良債権を生む恐れもあり、中国政府は難しい舵取りを迫られる状況になっています。

 第3章は中国の経済格差について。中国のジニ係数は1985年に0.331だったものが2003年には0.479と急上昇したものの、その後は横ばいの傾向にあります(96p図3-1参照)。これは農民工の賃金の上昇やリーマンショック以降に内陸地域で大規模な公共事業が行われたことが農村の一人当たりの所得を上げたからだと考えられます(もっとも、都市住民には「隠れ収入」があり実際の格差はもっと大きいという指摘もある(97-99p)。
 一方、資産の集中は確実に進んでおり、上位10%の資産保有シェアはヨーロッパの主要国の水準を抜き、アメリカに近づいています(103p図3-2参照)。

 また、地域間格差も90年代以降大きく拡大しました。改革開放とともに沿海部と内陸部の格差が拡大したのです。
 この格差は西部大開発などによって2005年頃をピークに縮小しますが、財政における地方の独立性が強い中国では、これは手放しでは喜べない状況です。
 ユーロ圏では「単一の金融政策、各国独自の財政政策」という組み合わせのもとで、経済的に弱い南欧諸国が財政支出を拡大し、それがユーロ危機へとつながりましたが(竹森俊平『ユーロ破綻』(日経プレミア)参照)、中国の内陸部の省も沿海部の省に比べて財政支出を拡大させており、貴州省や青海省は「中国のギリシャ」(122p)となる可能性があるのです。

 この地域間の格差を解消するには、①各省が独自の金融政策を行う、②豊かな省から貧しい省へと財政支援を行う、③貧しい省の人が豊かな省へと移動する、という3つの解決方法が考えられます。
 このうち①は現実的ではなく、②は経済成長にブレーキを踏む恐れもあります。そこで現実的な解決策は③なのですが、この人の移動を扱ったのが第4章になります。

 中国の戸籍には都市戸籍と農村戸籍があり、農村の人びとが都市の住人になるにはさまざまなハードルがあります。そこで、農民たちは農民工として農村に戸籍を持ちつつ、都市へと出稼ぎに出たのです。
 この農村から出稼ぎに来る農民工こそが中国の息の長い経済成長を支えたと考えられます。経済成長が起きると賃金が上がり、輸出競争力が落ちるのが普通ですが、中国では低賃金では働く労働者がいくらでも農村から供給されたので輸出競争力が落ちることがなかったのです。
 ところが、近年、中国はこの農村の余剰労働力がなくなる「ルイスの転換点」を迎えたという主張があります。中国の農村からの労働力の供給は限界に達しつつあるというのです。

 しかし、一方で中国の農村にはまだ余剰労働力があるが、土地に縛られて都市に出てこれないのだという議論があります。先述したように中国では土地は公有が建前で、農民に認められているのも請負権です。これは自由に売って処分できるようなものではないために、この請負権を保持するために農村に残っている農民が数多くいると考えられるのです。
 これが事実であるならば、土地取引の制度をうまく整えることで農村から余剰労働力を引き出せるということになります。中国政府もこうした課題を認識しており、農民の財産権を強化するとともに、中小都市に農民を移住させる新型都市化計画を進めています。
 ただし、これで農民が農村戸籍を捨てて都市に移り住むかというと、社会保障制度や教育の問題などもあって、そう簡単には進まないだろうと予想されます。

 他にも農民工の労働環境をめぐるさまざまな問題があります。中国の建設現場では「包工制」と呼ばれる請負制が横行しており、労災の補償などが十分になされていません。このような「古い」制度が残る一方で、シェアリング・エコノミーが発展しており、ここでも労働法の保護を受けられない労働者(あるいは個人事業主というべきか?)が増えています。労働組合やNPOの動きも政府によって抑えられており、労働者の保護が追いついていない現状があります。

 第5章は国有企業改革について。中国では、採算性の悪い国有企業が「ゾンビ企業」として淘汰されずに生き残っているという指摘がある一方で、00年代以降、国有企業のプレゼンスが増している「国進民退」の動きがあるという指摘もあります。
 この「国進民退」に関しては実際に起きているのが議論が分かれるところでしたが、電力・石油化学・通信・航空などの重要部門に関しては公有企業の支配が維持されており、また、賃金も民間企業に比べて高くなっています。そして、この賃金格差、あるいは労働分配率の違いのかなりの部分は所有形態によって説明できるというのです(173ー177p)。
 
 今までの中国経済の成長を支えてきたのは生産性の高い民間企業ですが、生産性の低い国有企業に資本が集まり、高賃金につられて優秀な人材が集まるようでは中国の経済成長の伸びは鈍化していしまいます。
 また、ゾンビ企業による鉄鋼など過剰な供給はアメリカとの貿易摩擦の一因ともなっています。こうしたゾンビ企業をスムーズに退出させるか、あるいは資本などを増強して収益力の高い企業に生まれ変わらせることができるかが、今後の中国経済を占う一つの鍵となります。

 第6章は中国で起きているイノベーションと今後の持続可能性について。この本の目玉というべき部分かもしれません。
 アセモグルとロビンソンは『国家はなぜ衰退するか』の中で、中国の制度は「収奪的」であり、いずれ成長は限界に突き当たる主張しました。これは経済学では主流の考えで、知的財産権の確立を重視するダグラス・ノースの考えなどからも、パクリが横行する中国の経済成長は持続的ではないと考えることができます。
 
 ところが、その中国でイノベーションが起きています。「財産権の保護」「法の支配」といった市場を支える制度が不十分な中でも、新しい技術開発と投資が行われているのです。
 著者は、この中国のイノベーションを3つの層に分けて考えています。一つは「プレ・モダン層」で、知的財産権を無視する零細業者たちの集まりです。代表例は、基本設計をパクりながら様々な部品をかき集めてつくられる「山寨(さんさい)」携帯と呼ばれるものです(この事業者に関しては丸川知雄『チャイニーズ・ドリーム』が詳しい)。
 もう一つは「モダン層」で、ファーウェイ(華為技術)に代表されるように、自社で技術開発を行い国際特許の取得にも積極的です。一般的な日本企業に近い存在といえるでしょう。
 さらに「ポスト・モダン層」があります。これは独自技術を開発しつつ、その技術をオープンにしイノベーションを促進していこうとする新興企業です。OSのLinuxなどを思い浮かべるといいかもしれません。

 著者は中国経済、特に深センにおけるハイテク産業の強みは、この三層が互いに補完しあいながら存在している所にあるといいます。
 一般的にパクリとイノベーションの共存はありえないようにも思えます。しかし、例えば料理のレシピは知的財産として保護されていませんが、日々新しいメニューが開発されています。
 ちょうど近年の日本のラーメン店の発展を考えるといいかもしれません。ラーメンの進化や多様化をもたらしているのは、レシピの保護などではなく他の外食産業と比較した時の参入障壁の低さです。
 深センでは山寨携帯の製造などを機に、さまざまな部品を調達する仲介業者(デザインハウス)などが誕生し、それが新しいイノベーションを目指す企業の参入障壁を引き下げるという、一種のエコシステムが生まれているのです。

 このプレ・モダン層が存在する(モダン(近代)的制度が不十分である)がゆえに、ポスト・モダン層が成長するというのが中国経済の一つの特徴といえます。
 例えば、アリババの決済システム(アリペイ)は銀行システムが不十分だからこそ生まれ、人びとに受け入れられました。そして、このアリペイの情報をもとに個人を格付けするシステムなども誕生しています。
 また、政府はこうした動きをある程度黙認し、成功しそうになると認めるといったやり方を取っており、政府の裏をかこうとする民間主体と、一種の「馴れ合い」のような状態にあると著者は見ています。

 終章では、日中の貿易が基本的に相互補完の関係であることを確認し、その上でトランプ・リスクや「一帯一路」についても触れています。

 序章に「中国経済については、実態を調べていけば「リスク」として理解できる現象でも、それを確定するための知識や情報が錯綜しているので、「不確実性」として捉えてしまいがちだ」(23p)という文章がありますが、まさにそのための知識と情報を授けてくれる本となっています。
 あとは、著者のいう「馴れ合い」がどこまでつづくのかということが(スター経営者を共産党が危険視しないか? イノベーションを政府が横取りしないか?)、残った「不確実性」なのかもしれません。