もうちょっとまともな反論があるのかと思ったら

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追記
 論点がわからない人がいるようなので最初に3行でまとめておきますよ。
 
 finalvent: 自衛隊暴力装置ではない(暴力装置は国家のみを指す用語だから)。
 hokusyuさん: 自衛隊暴力装置である。
 排他的な命題なんでどっちかが正しく、どっちかが間違っている。お考えください。

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 ⇒とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去

なるほど、この定義によれば、国家権力は暴力装置である。では「暴力を発動するため」の「暴力」とは何だろうか?警察や軍隊だとすれば、「警察や軍隊を発動する」となり、意味が通らなくなる。

 意味通るけど。警察とは警察暴力であり、軍は軍暴力。なにか疑問でも?

むしろ、その後半の部分と比較してみればわかるが、軍隊や警察は、「諸機関」と並列されているのである。つまり、国家は暴力を発動するために、警察や軍隊を配置しているのであって、「暴力」そのものではなく「機関」なのである*1。

 警察や軍は機関(organ)だよ、それが、暴力装置としてapparatus化(装置化すること)されているということ。そしてapparatus(装置)とすることで、その機能によって意味づけられている。(国家が暴力のorganだ、とは言えるけど。)
 タコ焼き器に統合された鋭利なキリは、機関としての刺すという機能をもっているが、タコ焼き器という装置によって、タコ焼き返しという権能としてapparatus(装置)とされているということ。

ところで、警察や軍隊だって、それぞれの暴力を「適切に」発動するために諸機関を置いている。つまりそのように組織を形成している。その意味ではもちろん「暴力装置」なのであり、その「暴力装置」が国家の意思から離れて、自律して行動してしまう危険性はつねにあるのである。

 警察や軍がそれ自体の諸機関をもつのはそう。だから、警察とは警察装置であり、軍は軍装置。だけど、国家に独占される暴力としての装置性はない。というのは、そもそも暴力装置が国家だからだ。国家が暴力を独占するから暴力装置はひとつになる。と、同時に国家の意志なくしてこれらの諸機関の暴力は発動できなくなる。

われわれは、どんなに治安がよかろうとも警察国家に住みたいとは思わないだろうし、どんなに強力な軍事力を持とうとも軍事国家に住みたいとは思わない。

 いや、街角のあちこちに監視カメラを設置していることからわかるように市民は夜警国家に住みたいと思うし、軍事が正当に行使される軍事国家に住みたいと願う。でないと侵略されるからね。 (追記:警察国家夜警国家は視点の差だよ。Mシステムはどっちだと思う?)

ところで、軍隊も警察も、組織としては国家という組織の一部である。その意味では、国家そのものも「暴力装置」であることにかわりはない。しかし、だからといって警察(組織)や軍隊(組織)は「暴力装置」ではない、ということはできない。

 警察や軍が国家の組織であることはそう。それはお役人がいる官僚組織として。で、それらの機能である暴力は国家に収納されるから、国家がイコール「暴力装置」となる。

だが、そもそも、自衛隊や警察が行使する力は暴力であるということを認めず、正統な暴力は正統なのであると繰り返すだけでは、それは自己欺瞞といわざるをえないだろう。

 「自衛隊や警察が行使する力は暴力である」は普通に認めているのだが。で、問題は、それらの暴力は国家の意志を介して正当でなければ行使されない。これが国家が暴力を発動できる暴力装置ということ。国家という暴力装置があれば、軍や警察はそれ自体からの暴力が発動できなくなる。
 また、正当な暴力こそ市民を守るものでもあるが、どこが自己欺瞞なのだろう。
 自己欺瞞があるとすれば、こうした暴力装置をどのように解体する契機を持つかというマルクス吉本隆明的なテーゼにおいてだけ。
 というわけで。
 国家というのは、諸暴力をapparatus(装置)とするがゆえに、唯一の暴力装置なのだという基本がまるでご理解されていないご様子。
 暴力装置とは国家という意味なのだよ。
 
 それと⇒はてなブックマーク - とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて - 過ぎ去ろうとしない過去
 まあ、その議論の賛同者が多そう。
 辞典的な定義からの逸脱を再考したほうがいいと思うよ。
 ⇒社会学小辞典で「暴力装置」を調べてみた - くじらのねむる場所@はてな

暴力装置
最高に組織化された政治権力である国家権力が、軍隊・警察・刑務所などを配置している状態などに用いる。

 「など」には組織などが入るのであって、「など」に軍は含まれない。
 軍は暴力装置ではないよ。(暴力のorganではあるけど)
 

追記
『職業としての政治』脇圭平訳・岩波文庫

むしろ、近代国家の社会学的な定義は、結局は、国家を含めた全ての政治団体に固有な・特殊の手段、つまり物理的暴力の行使に着目してはじめて可能となる。「すべての国家は暴力の上に基礎づけられている」。トロツキーは例のブレストーリトウスクでこう喝破したが、この言葉は実際正しい。もし手段としての暴力行使を全く縁のない社会組織しか存在しないとしたら、それこそ、「国家」の概念は消滅し、このような特殊な意味で「無政府状態(アナーキー)」と呼んでよいような事態が出現していたに違いない。もちろん暴力行使は、国家にとってノーマルな手段でもまた唯一の手段でもない。―そして、そんなことをここで言っているのではない―が、おそらく国家に特有な手段ではあるだろう。そして実際今日、この暴力に対する国家の関係は特別に緊密なのである。過去においては、氏族(ジッペ)を始めとする多種多様な団体が、物理的暴力をまったくノーマルな手段として認めていた。ところが今日では、次のように言わねばなるまい。国家とは、ある一定の領域の内部で――この「領域」という点が特徴なのだが――正当な物理的暴力行使の独占を(実効的に)要求する人間共同体である、と。国家以外のすべての団体や個人に対しては国家の側で許容した範囲内でしか、物理的暴力行使の権利が認められていないということ、つまり国家が暴力行使への「権利」の唯一の源泉とみなされてるということ、これは確かに現代に希有な現象である