ヴィクトリア朝と屋敷とメイドさん

家事使用人研究者の久我真樹のブログです。主に英国ヴィクトリア朝の屋敷と、そこで働くメイドや執事などを紹介します。

「2つの使用人問題」を巡る19世紀末時点での女主人の見解

英国メイドの終焉を語る際には、「使用人問題」という言葉は欠かせません。英語では「The Servant Problem」「The Servant Question」と表記するこの問題は、時代によって「何が問題か」という意味が異なりました。



まず、19世紀末までに表面化した大きな問題は「優秀な使用人のなり手不足」です。こちらの見解は主に中流階級の女主人(=メイドの雇用主)の間で強い支持を受け、使用人個人の資質に対する攻撃や不満を含んだものでした。いわく、「昔の使用人は優秀だった」、いわく「メイドの質はひどく、訓練が足りない」など。



もう一つの視点が、同じ「なり手不足」でも、「メイドという職業全体」への需要に対する供給不足という、より高いレベルでの構造的問題を扱うものです。こちらが大きく顕在化し、政府が取り組み始めたのが第一次世界大戦に前後した時代で、1920年代以降はほとんどの場合、個人の資質云々ではなく、「待遇が悪いからなり手がいない」との社会問題として認識されています。



今回、夏の同人誌では『英国メイドの世界』で書いた続きとして、主に後者をテーマに扱いますが、たまたまネットをさまよっていたところ、前者の問題を扱った当時の女主人による著作を見つけました。ここで語られる世界は、空気感を知る意味で、非常に貴重です。



余談ですが、「使用人問題」はイギリスに限らず、19世紀末〜20世紀前半にアメリカでもフランスでもドイツでも日本でも形を変えつつ生じた事象であり、現在もいくつかの国々で生じています。


使用人への不満・被害者意識を丸出しする女主人

私が読んだ19世紀末の女主人の手による本は、質の悪い使用人に女主人がいかに苦しめられているか、を彼女の体験談や知人の経験、そして新聞などから集めた情報で満ち溢れた構成です。面白い点は、法廷の場で女主人は理不尽に負け続ける、との話です。



使用人の方が社会的立場が弱いことで同情を引きやすく、女主人に勝ち目はなく、女主人を保護する法律を作ってというのは、初めて見るものでした。ナースメイド、コックなど個別の職業についても彼女たちのひどい仕事ぶりのエピソードのオンパレードでした。



たとえばDevonshireから来たメイドの話は紹介状がないままに採用します。見た目も気質も良いように思ったものの、彼女は「父親です」「母親です」「親戚です」と、どんどんロンドンに親族がきたことにして、屋敷の金でもてなしを続けます。あるとき、このメイドが駅に迎えに行くと聞いた女主人が「その駅は、Devonshireからの到着駅ではない」と気づきます。他に、衣類をダメにされたり、ひどい目にあわされたりとして、紹介状を出さなかったという女主人の下を訪ねに行き、そこでこのメイドのひどさを教わり、解雇に踏み切りました。



もうひとつが、クリスマスの前に雇用したコックの話で、こちらは紹介状があったものの、コックの所業が怪しく、明らかに屋敷の食品や備品を部屋に持ち込んで隠し、同僚のハウスメイドから自分の行動を隠ぺいしようと動いています。途中で女主人は紹介状の主の下を訪ね、経済的に低すぎること(立派な家庭に努めたのではない)と、そこでこのコックのロンドンの家を突き止め、その家を訪ねて紹介状の筆跡が偽造されたものであること(姉妹の記述)や、コックの意図がクリスマスのための食材を持ち出すことにあると結論を下します。



警察沙汰→裁判・有罪、というところで落ち着きましたが、彼女が語る使用人問題は「質的問題」が軸足です。


解決策は教育・訓練

この「質的問題」に対する彼女の解決策は明確です。「優秀な使用人確保のための訓練」を提唱しています。職業に就くには、メイドたちは訓練が足りなさすぎる、その割を女主人(夫や子供の相手をするし、彼女の場合は身体が強いわけでもないので)は食っている、というものです。



引き合いに出されたのは、女主人たちの夫が活動する商業領域で雇用する、書記や店員、あるいは看護婦です。その職に就く前に訓練を受けているか、徒弟時代や見習いなどで訓練を受ける機会があると。メイドの訓練は女主人が行い、「使用人は女主人が作り上げる」との言葉もあるとしつつ、この本の著者はこのことを否定します。



ここで、私が分からなかったのは、この彼女が主張するロジックです。他の領域でも結局、「職場で一定の訓練を受けさせている」点で、女主人の置かれる境遇と変わりません。もちろん、業務の定型化が難しく、家族によってニーズが異なる仕事の複雑性が高い家事労働の訓練は、他の職種と若干異なるところもありますが、未熟な人間ならば雇わなければいいのです。



しかし、女主人は自分たちの負担を下げるためにメイドを雇用しますし、経済的に厳しい人々は安価なメイド=訓練を受けていないメイドを、「自分の意志で雇う」わけです。優秀なメイドが欲しければ、見合う代価を払えばいいだけです。しかし、代価を支払わず、優秀なメイドが欲しい、と言っているようにしか聞こえません。



メイドの仕事に時間の規律がない点について欠点として認めていますし、他の仕事との比較もしていますが、その時間の規律がない状況を生み出す業務の中心が「女主人」であることへの言及や反省が見つかりませんし(方向性として男性の無理解や男性軸の社会的価値観を責めている?)、メイドが過ごす部屋を快適にしたり、外の空気を吸わせるなどを提案しつつ、どう業務を減らすかの視点がありません。


メイドの職業訓練は需要に追い付かない

最終章で「私には夢がある」「ユートピア的であるが」と、メイドに限らず、女性の様々な職業の訓練校的なものを提案していましたが、ここでも説得力がありませんでした。職業訓練は受けられる人間の数も限られ、決して、巨大な需要を満たしえるものではないからです。



また、これは後の時代にも同様の経緯が見られますが、メイドの職業はこの時代、結婚=引退でした。つまり、他の職業より受けた訓練を活用できる期間が短くなっています。訓練を行い、優秀な人材を確保するならば、経験を重ねたメイドでも働ける長期的に勤められる環境が必要だと考えます。



結婚したメイドを好まないのは、メイドの側の都合ではなく、雇用主側の要請です。結婚したメイドの就職は難しく、なぜ実質的な引退に追い込むかは、個人的に「住込み」だからだと思っています。住込みによって家庭内に私生活を持ち込まれるのは好ましくないですし、子供や家族を優先されて人手が足りなくなっても困ります。



それを抜きにしても、最も大きな問題は労働環境が悪いからなり手が減っていく事実です。この著者は「優秀な使用人を雇いたい」としていますが、「優秀な使用人を雇うには使用人水準の底上げが必要」(彼女が遭遇した無能な使用人、犯罪などから)としつつ、あくまでも使用人側に努力を求めている点で、19世紀末的といえます。


見たくない現実は見えない・見ようとしない

少なくとも、冒頭で述べた「使用人問題」の問題分析について、1920年代までには「家事使用人の待遇が悪すぎる」と、広く周知されています。「法的に労働環境が保護されない」「社会的地位が貶められている」「女主人の権限が強すぎるし、個人の処理能力に対して業務量が過剰」と問題が明らかにされています。



今回言及した本自体がきちんとした資料本で大きく言及されているのをほとんど読んだことがなく、どの程度の位置づけなのかは、まだ把握していませんが、彼女の語る正しさの是非はともかく、そうした視点が盛り込まれた本が刊行されたことが興味深いです。



私が読んでいる本に偏りがあるのを自覚しつつ、こうまで見える世界が違うことにただ驚きます。「ゆりかごを揺らすものが世界を制する」的な、使用人の影響力を語る上での名言は気に入りましたが。



いずれにせよ、今回読んだ本の著者である女主人は、何度もダメなメイドに引っかかりすぎているのが、どうにもこうにも釈然としません。紹介状を偽られる実体験が2回出ていましたし、途中で疑惑を持って前職の雇用主に確かめにも行きましたが、最初からやれば済むことです。痛い目を見ているのですから。



信じたくないことは信じたくない、見たい現実を見るという人間心理が、対応を遅らせているようにも思えます。


サービスを安価に使おうとすると、サービス提供者の労働環境を悪化させる

女主人の見解は、どこか現代事情に通じます。



今回取り上げた女主人の要望は「雇用主は何も変わらず」「良質な使用人を得たい」とするもので、その間にある「悪い待遇」「低賃金」(裕福な屋敷に比べて相対的な低賃金)には目をつぶっています。ところで、これは過去の女主人の「都合がよすぎる要求」だったと一笑にふせないと私は思います。



個人的に現代メイド事情も含めて学ぶ中で気づいたのは、育児領域や介護領域、もっと広くサービス領域を含めて、利用領域が高すぎるから安く利用したいとの気持ちや、不規則な時間に合わせて使いたいというニーズが、働き手の賃金を安くし、労働時間を不安定にする引き金になります。



当たり前といえば当たり前ですが、行政サービスの利用料金が安いのは、その分だけ税金でコストを吸収してくれているからです。しかし、財政負担の増大に繋がり、いずれ限界を迎えます。英国では1980年代以降、IMFの融資を受けたことでの公共事業への投資が削減され、個人の負担は増大しました。



会社契約の人々や、公共サービスで働く家事サービス提供者が増えると、個人対個人で契約した頃よりもひどい待遇は出来ませんし、料金もかさみます。その隙間を埋めたのが、個人契約、移民など法的立場が弱く、低賃金労働でも受け入れる人々でした。公共で削減したコストを個人が負担し、個人は「安価に使える人々」を求めざるを得ず、またその質に対して不満を述べる構造が続いていることは、留意が必要です。



何かを享受しようとするとき、安価な何かを求めてしまう時、削れるものは人件費にならざるを得ないものは、多々あります。たとえば工場の海外進出の主要因となる人件費の削減ですが、工場ができると地元で経済発展が生じて賃金が上昇し、より安い地域へと流れる構造もあります。これは、常に貧しい人・低賃金で働く人を求めるトレンドでしょう。「世界システム」という概念を示したウォーラーステインに興味を持ったのも、この辺りからです。



低賃金労働を称えて:ひどい賃金のひどい仕事でも無職よりマシ:ポール・クルーグマンの言説も、有名なものですね)



現代事情を踏まえると、給与は稼げなくなるものの、週休3日制度の世の中を希望するのが、私なりの解決策です。その分、雇用のシェアも生まれ、消費も生まれると思いますし、家族と過ごす時間も増えるはずですから。週1日休む安息日の概念はあくまでも人間の取り決めに過ぎません。週休2日ですら、完全に実現されていません。



近代やメイドを学ぶと、そんなことを思うのです。


補足事項:2011/06/26 22:30追記

多くの人に読まれると想定せず、やや粗い感じのメモとして書いていたので補足を行います。ご指摘、ありがとうございます。現代と過去との価値観の比較は難しいものですし、私の言及が足りなかった情報を補いました。










中流階級の女主人に選択肢はなかった点

中産階級の女主人にとって、ご指摘のように、選択肢はない状況でした。まず、当時の中流階級としてのステータスを保つためにはメイドの雇用が不可欠で(雇っていないと恥ずかしいとの価値観)、さらに中流階級らしい生活水準を営もうとすれば人手が必要でした。「一定の生活水準」を期待されながらも、では使用人に使えた所得が大きかったのか、といえば大きいものではありません。女主人は限られた予算の中から、選択をしなければなりません。



実質的に家事使用人の仕事はインフラのようなもので、手に入る選択肢から入手せざるを得ませんでした。その中で「手に入りやすい(未経験者・若い層の)人材の底上げ」を個人の教育で賄うのか、社会へと期待するのかで、女主人の見解に相違が出ます。



個人で教育を行う場合、低賃金で雇えるものの、教育コストが必要です。しかし、メイドが一人前になると、メイドはより良い待遇の職場を目指して転職していく可能性が高まります。この点で、全体での底上げが実現されれば、女主人は「教育」を自己負担せずに済むので、今回の女主人は後者を期待していると私は読み取っています。



今回の女主人の経済的余裕についてですが、彼女の家庭はメイドを2名雇っている描写があることから、中流階級の中でも中間より下、下層より少し上ぐらいの位置づけでしょうか。決して高給を出せる境遇ではありません。愚痴りたくなる気持ちは、分からなくもないです。



ただ、労働環境は、女主人のスケジュール管理や支持の出し方次第で改善する余地もありました。すべての中小企業がブラックでないように、すべての女主人の用意した職場がブラックだったわけでもありません。



この中で不幸なことは、女主人自身が適切な家事教育を受ける機会を持たず、人を管理した経験に恵まれた人が多いわけでもなく、様々な矢面や社会的規範にさらされていた点は、今回のテキストでは抜け落ちている部分となります。



人の管理をできずに失敗する、という点では現代のメイド事情でも繰り返しています。「メイドの雇用主は部下を使うマネージャーであることを理解していない」との指摘もなされています。


高賃金よりも「待遇改善」を求めたメイドたち

賃金について、家事使用人がどれだけ不満を持っていたかについては、実は他の要因に比べるとそれほど大きなものではないと言われています。あくまでも相対的なものですが、今回はあまり言及しなかった1920年代の「使用人問題」へのメイド職の聞き取り調査では、メイドが求めたのは「高い賃金」より、「労働時間の緩和」「自分の時間を持てる機会」や「社会的に低い存在として扱われる・機械のように思われることへの改善」でした。



住込みで働くメイドは他の職業に比べて家賃や食費を免れる点で相対的に得られる賃金は多く、貯金もしやすい環境でした。それが故に選ばれる職業でしたが、他の職業が商業領域で広がっていくと、「長時間労働の緩和」「自分の時間を持てる自由さ」を求めるようになりました。住居と職業が分離する商業系の仕事に対して、家事使用人の仕事は業務が終わっても家にいて、呼び出されるリスクを持ちました。



この点を、1920年代の「使用人問題」を扱う人々は理解しており、労働時間の規制や他に休日の定義など法を整備したり、休み時間に呼び出さないとか仕事の量を減らす工夫をするなど改善を促す提案を行いましたが、現実には高い失業率もあってか、法律は成立しませんでしたし、メイドを雇えない人々が生活水準を変えていく動きなども見られました。



最後に大きかったのは、人として扱ってほしい、との要望です。人として扱わずに機械のように思うから、自分では行わない長い労働時間を強いるのだと。「使用人は家具である」との言葉もありますが、以下は1920年代に問題を分析した心理学者Violet Firthのコメントです。




『女主人は使用人に労働を求めるだけではなく、女主人の優越を示し、彼女から賃金を受け取る女性に劣等感を抱かせる礼儀作法をも求めます。使用人の仕事そのものには軽蔑を受ける要素はありませんが、使用人に求められる態度には、雇用主から見下されるような、それも個人の尊厳を傷つけるような何かが存在しているのです』
(『The Psychology of the Servant Problem』P.20)


この補償は、高い賃金では解決しえないともViolet Firthは述べています。



私は「安い賃金」と書きましたが、低待遇も含めて「安いコスト」の方が言葉として適切でした。


補足:家事の大変さを書いたテキスト:『家事の歴史からメイドがいた風景を知る』シリーズ

前編:近代英国の家事についての読書メモ(料理や燃料、照明の話)

後編:近代英国の家事から見るメイドがいた風景(掃除や洗濯など)