空前のネコブームの陰でいま、日本の野生ネコ科動物が絶滅の危機に瀕している。その1種であるツシマヤマネコの保護と研究に取り組む羽山伸一先生に会いに、同じくツシマヤマネコの人工繁殖に挑む井の頭自然文化園へ行ってみた!

(文=川端裕人、写真=的野弘路、協力=井の頭自然文化園)

 日本には2種類、野生のネコ科動物がいる。

 イリオモテヤマネコ(沖縄県西表島に生息)とツシマヤマネコ(長崎県対馬に生息)だ。それぞれ、環境省のレッドリスト(絶滅のおそれのある野生生物の種のリスト)で、最も危機的な「絶滅危惧IA類」に分類されており、絶滅が心配されている。「種の保存法(絶滅のおそれのある野生動植物の種の保存に関する法律)」における国内希少野生動植物種でもある。

ツシマヤマネコの耳はイエネコに比べて小さく、先は丸い。耳の後ろの白い斑点「虎耳状斑(こじじょうはん)」はトラやヒョウ、そして、イリオモテヤマネコにもある。
ツシマヤマネコの耳はイエネコに比べて小さく、先は丸い。耳の後ろの白い斑点「虎耳状斑(こじじょうはん)」はトラやヒョウ、そして、イリオモテヤマネコにもある。
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 そこで、保護のために様々な方策が取られているわけだが、ツシマヤマネコの場合、2000年以来、動物園で繁殖するようになった。遠くない将来、飼育下生まれの子孫たちが元々の生息地に「野生復帰」することがあるかもしれない。今、飼育下のツシマヤマネコが野生で生きていけるように訓練する「ツシマヤマネコ野生順化ステーション」なるものも現地にできており、このシナリオが現実味を帯びつつある。

 このように書くと、非常に希望が持てる話のように響く。

 野生動物たちが瀕している「危機」の原因はたいてい人間にあるわけで、その罪滅ぼしというか、前向きに落とし前をつける方法のように思えるからだろうか。野生復帰のストーリーには、心に強く訴えかけてくるものがある。

足は太く短めでがっしり。
足は太く短めでがっしり。
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 ぼくは、動物園について本を書いた時に野生復帰のアイデアを知り、魅了された。これまで欧米の有力な動物園による「崇高な」試みのように見えてきたものが、21世紀になって日本で取り組まれるようになり、今、ツシマヤマネコでもほんのりと実現可能な未来が見えるようになったというのは、ぼくにとっては驚くべき進捗だ。

 そこで、日本獣医生命科学大学・野生動物学研究室の羽山伸一教授にお話をうかがいたいと思った。羽山教授は、日本における絶滅危惧種の保護や野生動物の管理について最前線で活躍してきた人物で、ツシマヤマネコについても環境省が設置する保護増殖検討会の委員だ。対馬の生息地での保全、動物園など飼育施設においての保全、両方に深くかかわってきた。

井の頭自然文化園の正門。
井の頭自然文化園の正門。
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 羽山さんとの待ち合わせ場所は、東京都武蔵野市と三鷹市にまたがる井の頭自然文化園。日本全国でツシマヤマネコがいる9つの動物園のうちの1つで、オス・メス2頭ずつ、計4頭を飼っている。そのうち3頭は、飼育下で生まれたものだし、今から対馬の森に戻ることは想定しがたいけれど、子どもの世代が野に放たれることはありえる。近未来の可能性に思いを馳せつつ、「野生復帰」にまつわる様々なことをうかがう趣向だ。

 まずは約束の時間よりも早く動物園を訪ねて、飼育展示係の唐沢瑞樹さんに、飼育されているツシマヤマネコの様子を見せてもらった。朝一番の時間帯だったので、奥にある寝室から表の放飼場に移動してくる瞬間から待ち構えた。公開されているのは、4頭いるうちの1頭。高齢のメスだ。

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 ゆっくりと扉は開いた。

 さーっと、影が横切った。

 姿をしっかり確認できなくらいの素早い動きだった。

 「彼女は、用心深いんですよ。飼育下で生まれたんですが、今うちにいる4頭の中でも一番、用心深い性格ですね」

ツシマヤマネコの飼育展示係を務める唐沢瑞樹さんが解説してくれた。
ツシマヤマネコの飼育展示係を務める唐沢瑞樹さんが解説してくれた。

 唐沢さんが解説してくれた。唐沢さんは、多摩動物公園でライオンやチーターなどの大型ネコ科動物を担当した後、井の頭自然文化園に異動になって、この3年間ずっとヤマネコの担当をしている。ネコ科動物飼育の経験が豊富だ。

 「ツシマヤマネコって、人との距離感を必ず保つ傾向があるんですけど、その中でも慎重な個体です。朝、外に出たら、まずまわりの状況を確認したり、においを嗅いだりして歩きまわって、それからちょっと高いところに登って見渡したりしてからやっと安心するみたいですね」

 その言葉の通り、しばらくあたりを探索して、ひょいと高いところに登ったあたりで、ようやく動きが落ち着いて、しっかりと姿が見えた。

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「猫」である。

 ネコ科だからそれは間違いないのだが、素のままで「猫」という言葉が出てきた。

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 同じネコ科でも、ライオンは「ライオン」でトラは「トラ」だ。ぼくは自然とそのように感じる。しかし、ツシマヤマネコの初見の印象は「猫」なのである。つまり、日常的に接触するイエネコにとても似ている。

 でも、ちょっと違和感がある。似ているようで、イエネコとは違う。

 言葉にするなら、まず普通のイエネコよりは大柄で、胴長短足の体形。尻尾も短めだ。額に縞模様がはっきり出ており、耳の後ろには白い斑点がある。

 ヤマネコだと知らなかったら、風変わりなイエネコだと思う人もいるかもしれない。それでもしばらく見ていると、短い足や尻尾に力強さを感じ、ああ、この子、やっぱり野生動物なのだなあと思う。その一方で、ちょっととぼけた顔つきは、かわいらしくもある。そんな絶妙な魅力のあるネコ科動物だ。

絶妙な魅力のある「猫」だ。
絶妙な魅力のある「猫」だ。
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 「隣にアムールヤマネコの展示がありますけど、ごらんになりました? キャットタワーといって木材を組んだ櫓(やぐら)のようなもので立体的に動き回れるようにしているんですけど、ツシマヤマネコの方は対馬にある自然を少しでも感じてもらえるようになるべく自然に近い形にしてあります」

 これは、動物園での動物の見せ方に関わる問題だ。井の頭のアムールヤマネコの場合は、立体的な動きができるように櫓のような人工的な構造物を入れている。一方、ツシマヤマネコは本来の生息地に近い景観の中で見せるという方針だそうだ。だから、笹の藪があり、小川がある。そして、ちょっと高くなったところに登ることができるようにもなっている。

 「実は、動物園に来てツシマヤマネコをはじめて見た人って、対馬にヤマネコがいるのかって驚くんです。それどころか、対馬ってどこっていう人もいます。イリオモテヤマネコは知っていて、場所も沖縄だっていうのはわかってるんですけど、対馬は場所すらわからない。ですから、私がガイドする時なんかに強調するのは、日本のヤマネコには、イリオモテとツシマの2種類がいるってことと、対馬の場所も覚えてくださいってことです。すると『夏休みに対馬に行ってきました』なんて人がいて時々後で報告しに来てくれるんですよね」

 動物園にいるツシマヤマネコを見た人に訴えたいことは、「日本には2種類のヤマネコがおり、そのうち1種類は対馬にいる」ということだという。展示を通じてどんなメッセージを発するかというのは大きなテーマなのだけれど、今回の焦点は別なので、この時、ぼくは唐沢さんの発言をさほど大きく受け取らないで流してしまった。むしろ「野生復帰」についてどんな仕組みで動物園が関わっているのかを聞いた。

ヤマネコをはじめ、唐沢さんはネコ科動物の経験が豊富な飼育員だ。
ヤマネコをはじめ、唐沢さんはネコ科動物の経験が豊富な飼育員だ。
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 「ああ、それは、まず、環境省と日本動物園水族館協会との間に協定があって、ツシマヤマネコを保全する取り組みが始まっているわけです。自治体やNPOや研究者がそれぞれの役割を持ってかかわる中で、動物園は環境省から預かる形でツシマヤマネコを飼っています。当然、繁殖を期待されているんですが、動物園の中でもやはりさらに細かな役割分担があって、今、うちでは自然繁殖じゃなくて、人工繁殖に取り組んでいます。アムールヤマネコで人工繁殖が成功したので、その技術を使って、ツシマヤマネコでも、ということです。もう、いつ成功してもおかしくないところまで来ていますよ」

 井の頭自然文化園では、ツシマヤマネコとアムールヤマネコを両方飼育しているので、飼育繁殖技術をまずアムールヤマネコで確立してからツシマヤマネコに応用できるメリットがある。アムールヤマネコは、ツシマヤマネコの近縁で、実は「種」としては同じだ。ちょっとややこしいけれど、広くアジアに分布するベンガルヤマネコの亜種として東アジアにはアムールヤマネコがおり、ツシマヤマネコは対馬にいるアムールヤマネコの地域個体群だと理解されている。

 そして、人工繁殖というのは、この場合は、人工授精による繁殖のことだ。環境省、日本動物園水族館協会、ツシマヤマネコを飼育している各動物園の話し合いで、井の頭はそのような役割を引き受けた。唐沢さんたちはまずはオスの精液を採取するところから始めている。

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 「オスの精液をとること自体が難しくて。大学の先生とも密に連絡をとって、アムールヤマネコではこうだから、ツシマヤマネコではこうしようっていうような議論を毎回重ねてやってます。それで、実は去年、精液はいっぱいとれました。でも、メスの発情がうまくいかなかったんで、今度はそっちを解決しようというところです」

 人工授精の方法が確立すれば、飼育下で交尾の行動を取らないような個体にも繁殖の機会が与えられる。絶滅の危機から脱する可能性を少しでも上げようとするなら、確立しておくべき技術だ。

 「他の動物園の仲間や、環境省や自治体、あるいは大学の研究者たちと一緒に仕事をして、同じ方向に向かっていくっていうのは素晴らしいことだし、そこで動物園が役割を果たすという使命感というかプライドみたいなものを感じます。私、前任の多摩動物公園ではライオンやチーターの担当をしていましたけど、アフリカの大型動物とくらべても、日本産であるという点で自分の意識の中で、はっきり違いますね」

 日本の動物園でライオンやチーターを繁殖させても、それらをアフリカの生息地に戻すのは、今のところ想定し難い。けれど、ツシマヤマネコの場合は生息地における保護活動とワンセットになっていることが前提だ。その一点だけでも、飼育の現場の責任の範囲も重み付けも変わってくる。

 この場合、動物園は、絶滅危惧種の保護や、その一つの手段としての野生復帰という一大事業の中で、飼育繁殖技術を確立するための「研究室」の一つでもあるのだ。

 大学の研究室ではなく、あえて動物園でツシマヤマネコの話を聞きたかった背景にはそんな事情がある。

 日本の絶滅危惧種を預かる「プライド」を熱く語る唐沢さんの言葉に耳を傾けつつ、ふと気づくと、周囲の緑に溶け込む薄緑のジャケットを身にまとった淡々とした雰囲気の人物が近くからこちらを見ていた。

 日本獣医生命科学大学・野生動物学研究室の羽山伸一教授だ。ツシマヤマネコを観察しつつ、唐沢さんと話すうちに、約束の時間になっていた。

左の人物が羽山伸一教授。日本獣医生命科学大学の野生動物学研究室を主宰している。
左の人物が羽山伸一教授。日本獣医生命科学大学の野生動物学研究室を主宰している。
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 羽山さんが研究室を持つ日本獣医生命科学大学は井の頭自然文化園と同じ東京都武蔵野市にあり、距離は至近。もっとも、羽山さんは、前日まで北海道の襟裳岬のゼニガタアザラシのフィールドにいて、そこから大移動をして駆けつけてくださった。

 ツシマヤマネコだけでなく、多くの日本の野生動物にかかわる研究と実践を続けてきた立場から、絶滅危惧種の保全増殖についてうかがおう。特に「野生復帰」という魅力的に響くプロジェクトについては、重点的に教えてもらうつもりだ。

井の頭自然文化園は日本の絶滅危惧種ツシマヤマネコがいる9つの動物園のひとつ。公式サイトは<a href="http://www.tokyo-zoo.net/zoo/ino/" target="_blank">こちら</a>。
井の頭自然文化園は日本の絶滅危惧種ツシマヤマネコがいる9つの動物園のひとつ。公式サイトはこちら
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 つづく

(このコラムは、ナショナル ジオグラフィック日本版公式サイトに掲載した記事を再掲載したものです)

羽山伸一(はやま しんいち)
1960年、神奈川県生まれ。日本獣医生命科学大学教授。博士(獣医学)。1985年、帯広畜産大学大学院修士課程修了後、埼玉県庁を経て同年、日本獣医畜産大学(現:日本獣医生命科学大学)に勤務。2012年より現職。日本の大型野生動物の研究および保護活動に従事する。現在、環境省中央環境審議会専門委員、環境省ゼニガタアザラシ科学委員会委員長、特定非営利活動法人どうぶつたちの病院副理事長、公益財団法人日本動物愛護協会学術顧問などを兼務。『野生動物問題』(地人書館)の著書のほか、『増補版 野生動物管理―理論と技術』(共に文永堂出版)、『野生との共存~行動する動物園と大学』(地人書館)など共編著多数。
川端裕人(かわばた ひろと)
1964年、兵庫県明石市生まれ。千葉県千葉市育ち。文筆家。小説作品に、『川の名前』(ハヤカワ文庫JA)、『雲の王』(集英社文庫)、NHKでアニメ化された「銀河へキックオフ」の原作『銀河のワールドカップ』(集英社文庫)など。近著は、ロケット発射場のある島で一年を過ごす小学校6年生の少年が、島の豊かな自然を体験しつつ、どこまでも遠くに行く宇宙機を打ち上げる『青い海の宇宙港 春夏篇秋冬篇』(早川書房)。また、『動物園にできること』(第3版)がBCCKSにより待望の復刊を果たした。
本連載からは、「睡眠学」の回に書き下ろしと修正を加えてまとめたノンフィクション『8時間睡眠のウソ。 日本人の眠り、8つの新常識』(集英社文庫)、宇宙論研究の最前線で活躍する天文学者小松英一郎氏との共著『宇宙の始まり、そして終わり』(日経プレミアシリーズ)がスピンアウトしている。
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