『宇宙ショーへようこそ』は作家の映画である | Montparnasse Variations ! 2nd Movement

『宇宙ショーへようこそ』は作家の映画である

宇宙ショーへようこそ

以下の論評では映画の核心部分に言及しています。ご注意ください!

【1】『宇宙ショー』は単純明快な娯楽映画ではないのかもしれない


■七月も半ばに入ると、劇場はもう夏休みシーズンになるのだろう。私が『宇宙ショーへようこそ』を見に行った横浜ブルク13でも、『借りぐらしのアリエッティ』『トイストーリー3』といった作品の公開が間近に控えているようだった。両者ともファミリー向けのビッグタイトル。「強敵」である。『宇宙ショーへようこそ』が、6月末という微妙な時期に公開となったのも頷けるラインナップだ。

■『宇宙ショーへようこそ』は、なによりも一級のアトラクションムービーだった。登場人物の子供たちと一緒に体験する2時間20分の宇宙旅行は万華鏡のように色彩がスプラッシュするファンタジックな世界であり、決して見るものを飽きさせない。それでいてSF的なガジェット感は限りなくゼロに近く、この作品が一部のマニアに向けて作られた作品ではないということはすぐに分かる。子供たちは夢中になってこれを見るだろう。だけれども。

■だけれども、『宇宙ショーへようこそ』は単なる子供向け作品ではない。良く出来た娯楽映画でも、実はないのかもしれない。良く出来たと言うには全体のバランスは崩れきっている。これは決してウェルメイドな作品ではないのだ。作品のいびつさは、何を見せて何を見せないかの取捨選択が執拗に行われた結果である。私はそこに4年という制作期間の厚みを感じたし、作り手の作家的な意志を強烈に感じた。『宇宙ショーへようこそ』は作り手の意志が深く刻み込まれた「作家の映画」なのだ。


【2】ノスタルジーに浸ることを拒みきるということ

■ただし、最初からそのように思っていたわけではない。ジャングルジムが浮き上がった時点で、これはアニメや漫画でよくある、全てをノスタルジックな感傷へと回収していく作品なのかと思わされた。「私たちは夢のような毎日を過ごしていました・・・」。その手の感傷はアニメや漫画の定番表現になっている。

■冒頭から描かれる夏の田舎の空気感。ジャングルジムが浮き上がるシーンにはノスタルジックなムードが溢れていた。その一方、登場人物たちのアクションはどこか定型的で、ブリリアントなものを感じることがまったく出来ない。私はその時点で「またか」と思わされたのである。「また感傷か」と。ところが、これは見事に裏切られる。映画は予想の斜め上を行く展開を見せるのだ。

■『宇宙ショーへようこそ』は、ノスタルジックな感傷に浸ることを拒みきった。エンディングシーンを思い出してみたい。「ただのUFOじゃない」という台詞も、フィルムをぶつ切りにしたような呆気ない幕切れも、ノスタルジーに浸ることを拒否するということにおいて、これ以上ないほど的確なのである。登場人物たちは一貫して、今ここにある身体感覚を第一に生きていた。その姿を描ききるということに賭けられているものは大きい。

■ノスタルジーは絶対に拒まれなければならないものだった。なぜなら、この作品は一貫して、そして周到に、快楽を受け入れることの完全肯定を志向していたからだ。
ノスタルジーの拒否こそ、そうした中で健全さを保つ唯一の方法だったからである。この点は後述する。

【3】執拗に描かれる、お金に支配された宇宙

■この作品で子供たちが目にする宇宙の姿は異様である。ここまで俗に描かれた宇宙は他に無い、と言ってもいいかもしれない。例えば、月の「入国審査」を経て、「パスポート」を手にした子供たちが最初に目にしたものが何だったか思い出してみればいい。あの風景が全てを象徴している。月の世界は毒々しい色味の広告で覆われた商業空間なのだ。そこでは(私たちの世界と同じように)、何かを得るためには必ずお金を支払わなければならない。子供たちがハンバーガーショップでコーラの値段を地球円に換算するシーンがあるが、これは欠くことのできない部分である。子供たちはお金を払うことで飲み食いし、休息して、移動する。お金の存在は何度も何度も、執拗にクローズアップされる。

■子供たちは、単に求められてお金を支払うだけではない。お金と引き換えに得られるモノに貪欲な姿も見せる。小遣いをもらった子供たちはゲームセンターで遊び、おもちゃ屋で買い物をする。「ギャラクシー・エクスプレス」に乗れば、車内販売をねだり、停車駅にその星限定の駅弁があると聞いて買いに走ろうとする。

■お金の存在がクローズアップされるのは「宇宙ショー」についても同様だ。全宇宙にタイムラグなしで、エンタテイメント・プログラムを放送する海賊放送「宇宙ショー」は、どうやらCMスポンサーからの出資金によって成り立っているようだ。また、「宇宙ショー」オリジナルグッズの販売でも収益を上げているのだろう。番組のホスト役を務める「ネッポ」のキャラクターグッズは何度も登場し、強い印象を残す。また、「宇宙ショー」のデータをマニアに販売して生計を立てている「ゴーバ」という人物が登場するが、人気コンテンツの周辺に発生する二次的な市場の存在も描かれているのである。

■『宇宙ショーへようこそ』は、隅々まで経済秩序に覆われた宇宙の姿を描き出す。前半に挿入される、子供たちがアルバイトをするくだりもそのひとつでしかない。勤労の尊さを描くといったお説教とは無縁であるどころか、むしろ真逆の調子で描かれている。子供たちがアルバイト生活を(わずか1日で)切り上げることになった顛末を思い出してみればいい。しかも、彼らを導いていくはずの唯一の大人は元手をギャンブルで増やそうとするのである。


【4】なぜ「宇宙ショー」へ「ようこそ」なのか?

■金でやり取りされるのは、必ずしも生きていくのに必要なものばかりではない。むしろ、多くは何の役にも立たないもの、何の栄養にもならない食べ物と交換される。私たちはそういったものを「麻薬」と呼んでいる。「宇宙ショー」はある目的のために、全宇宙で禁止薬物に指定された「ズガーン」と呼ばれる麻薬を入手しようとたくらんでいるが、そもそも、人々を魅了するエンタテイメント集団「宇宙ショー」自体が文化の「麻薬」なのである。刺激と官能によって人々を酔わせ、それと引き換えに何かを奪っていく。子供たちが戦うことになるのは、自らの意志で麻薬性を極限まで強めようとしている「宇宙ショー」である。

■もちろん、「宇宙ショー」は観念的な悪として描かれるわけではない。子供たちが「宇宙ショー」と戦うのは誘拐された仲間を救うためであって、それ以外の理由は無い。しかし、彼らの戦いには、宇宙ショー・マニアのオーバが飛ばした小型カメラによって別の意味が与えられる。派手なアクションと過剰な台詞が飛び交うクライマックスシーンを見ているのは映画の観客である私たちだけではない。「宇宙ショー」の放送を受信できるすべての宇宙人たちが彼らの奮闘を注視しているのである。「宇宙ショー」に魅了されていた宇宙人たちは、その「宇宙ショー」と戦う子供たちの姿に熱狂し、彼らを新しいエンタテイメント・ショウのヒーローとして迎えるのである。

■ここでようやくタイトルに込められた意味が明らかになる。なぜ敵役である「宇宙ショー」へ「ようこそ」なのか。子供たちは「宇宙ショー」と戦う。しかし、その活躍自体が「宇宙まつり」を盛り上げるエンタテイメント・ショウの一部となって、宇宙人たちを酔わせてしまうのだ。彼らは新しい「宇宙ショー」のヒーローとなった子供たちに喝采を送る。それは、劇場で『宇宙ショーへようこそ』という映画プログラムを見ている私たちの姿と相似形を成している。この三重の入れ子状の構造こそ、『宇宙ショーへようこそ』という映画の中心にあるものである。それ以外の説明されていない設定や物語上の理由付けなどはどうでもいいことなのだ。映画は映されたもの(描かれたもの)がすべてである。


【5】世界を丸ごと肯定するラディカルな快楽主義

■『宇宙ショーへようこそ』は、ディズニーランドを否定しながら、人々がディズニーランドに求めるファンタジーや刺激や官能や快楽は否定しない。むしろ全力で肯定する。イマジネーションの迸り、アニメーションの刺激、登場人物たちの感情を感受することの悦び、キャラクターの身体の官能性、それらすべてに酔うことを徹底的に肯定する。世界を丸ごと肯定するには、そうしたものに触れることによってしかないと宣言するかのような圧倒的な迫力で。

■この部分にノスタルジーの拒否が強く関わってくるのだ。快楽を貪るには精神的な強さが要求される。夢のような時間もまた日常と地続きになったその一部でしか無いと感覚できる感受性が必要になるのだ。けっして麻薬に溺れることのない身体を保持するということ。『宇宙ショーへようこそ』は、快楽や悦びを完全肯定すると同時に、ノスタルジックな感傷に溺れない強靭な身体感覚を持った登場人物たちを描ききった。これはラディカルな快楽主義である。この作品からある種の健全さが感じられるとすれば、それはラディカルな快楽主義に根ざしているのだ。

■無力なカラスになって見つめる恋人の死という出来事も、悲劇としての一回性を失ってしまえば、たちまち憐憫へと堕す。決して手が届かない青空の高みへの思いなどと言っても、ほとんどの場合、居酒屋でままにならない人生を嘆く演歌的感傷の21世紀ヴァージョンで終わるだろう。ラディカルな快楽主義は、そうした印隠滅滅とした近年の流行への力強いカウンターにもなっているのだ。

■『宇宙ショーへようこそ』は単なる子供向け作品ではない。しかし、誰よりも子供たちによって見られなければならない作品である。人生は死ぬまで終わらない修学旅行である。一つの旅行の終わりは新しい旅行の始まりでしかない。こうした図々しいオプティミズムこそ、年若い人間がもっとも必要としているものだからである