急速に研究が進む生命科学。もはや生命は、コンピューター上でつくられる?

Medical Science 〜ヒトゲノムの完全解読がもたらすもの〜 ヒトの全遺伝情報であるヒトゲノムが完全に解読されたことによって誕生した、個人用遺伝子検査サーヴィス。いまやたった99ドルで、がんなどの疾患のリスクや薬物の感受性、さらには自分の祖先に関する情報などを受け取ることができる時代である。生命科学の急速な進歩がもたらす、ぼくらの明るい未来とは?
急速に研究が進む生命科学。もはや生命は、コンピューター上でつくられる?

21世紀の生命科学は、「ヒトゲノム計画」の完了によって幕を開けた。ふたりの分子生物学者、ジェームズ・ワトソンとフランシス・クリックによる「DNA二重らせんモデル」の提唱から、ちょうど50年後の2003年、ヒトの全遺伝情報であるヒトゲノムが、完全に解読されたのである。これは単に、ヒトの「設計図(=30億文字のDNAの並び)」が明らかにされたというだけにとどまらない。少なくとも遺伝情報については、この中に「すべて」が収まっているのである。これまでの生物学は、ひとつひとつの遺伝子を個別に調べるしかなかった。しかし、ゲノム解読によって、初めて「これですべて」といえるものを生命科学は扱えるようになった。枚挙から網羅へ、生命科学はヒトゲノム解読によって、次のステージへと進んだのである。

ヒトゲノム解読の成果は早速、DTC遺伝子テスト(direct-to-consumer genetic testing)という個人用遺伝子検査サーヴィスを生み出した。例えば代表的なサーヴィス「23andMe」では、99ドルのキットを購入し、だ液サンプルを送ることで、自分のゲノムに存在する50〜60万のSNPs(一塩基多型=遺伝子上に存在する1塩基レベルの個体差)が解析され、そこから分かるがんやアルツハイマー病、糖尿病といった疾患のリスクや薬物の感受性、さらには自分の祖先が地球上のどこから来たかといった情報など、およそ200項目にわたる結果を受け取ることができる。かつては、ヒトゲノム解読に10年以上の歳月と30億ドルの予算が投入されたが、09年にはおよそ2週間の時間と4,400ドルのコストで、個人のゲノムを解読できる技術をComplete Genomicsが発表している。DNA配列解読ヴェンチャーは熾烈な競争の時代を迎え、ゲノム解読にかかる時間と費用は、現在も急速に低下している。DTC遺伝子テストは、数年後には個人の完全ゲノム解読サーヴィスへと移行するだろう。

このヒトゲノム解読を国際プロジェクトと競ったクレイグ・ヴェンターは、その後の10年間を合成生物学に費やした。そして10年の5月、ヴェンターらは細菌「マイコプラズマ・カプリコラム」からゲノムDNAを取り出し、容れものだけになった細胞に、完全に人工合成した別種の細菌「マイコプラズマ・マイコイデス」のゲノムDNAを移植することで、移植した容れものがもう一度生命として動き出すことを実証してみせた。たとえていうなら、買ってきたパソコンのOSを消去し、自作OSをインストールして動かしたようなものだ。彼らはこの実験結果から、コンピューター上でデジタルデータ化されたDNA配列を基にして、化学的に合成したDNAを用いて「完全な遺伝子システム」を再現できること、つまり、最も単純な生命を制御するには、ゲノム情報だけで十分であることを示したのだ。

いまやわたしたちは、ヒトや多くの生き物がもつ全遺伝情報や全タンパク質情報を総体として扱い、より詳細に生命現象を解析することができるようになった。そして、得られたデータを統合し、システムとしての生命を理解し、創り出そうという段階に到達しつつある。そう、わたしたちが生きている11年とは、どの時代の人類も到達できなかった「われわれ=生命とは何か」という問いに、科学的な答えを導き出す希望をもてる時代なのだ。

しかし、がんやアルツハイマー病といった疾患や新型インフルエンザなどの感染症は、依然としてわたしたちの健康の脅威であり続けている。免疫学がどれほど進んでも、いまだに花粉症ひとつ治すことができない。iPS細胞による臓器の再生も、実用化にはかなりの時間がかかるだろう。科学が答えを見つけるべき領域は、まだあまりにも広大だ。

TEXT & ILLUSTRATION BY HIROSHI M. SASAKI