今日も逍遥館 ~ 京都大学吉田南総合図書館のブログ ~

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対談:博士論文 × 大学院生

こんにちは!逍遥館です。
当館では7月から「卒論・修論応援キャンペーン」が始まります。

論文の書き方に関する書籍の展示や、卒論・修論を書いた先輩たちの体験談をまとめた冊子などを配付します。また「調査・相談カウンター」でも、論文の探し方のお手伝いをします。どうぞお気軽にご来館ください。

今回は、このキャンペーンに先駆け、お二人の大学院生の方へのインタビューを掲載します。
人間・環境学研究科博士課程に在籍し、今年博士論文を提出されたお二人。
卒論を書いて卒業という道もあれば、大学院に進学し修論を書く道もありますが、お二人の選ばれたのはさらにその先、博士課程へ進学し博論を書く道でした。博論執筆にあたり、どんな葛藤や発見があったのでしょうか。
(お話は2015年3月にお聞きしました。)

 

まず、お二人の研究テーマを教えて下さい。

Oさん(以下O):「ヴァルター・ベンヤミン*1のボードレール*2解釈について」です。ベンヤミンがボードレールの作品を解釈する思考にどのような意図があったのか、解明することをテーマとしました。解明できてないんですけどね(笑)。
Wさん(以下W):「廣松渉*3の思想にかんする研究」です。

 

論文提出直前の生活はいかがでしたか?

W:日々の生活自体はそれほど変わりませんでした。論文だけに集中する環境を整えるのが望ましいのでしょうが、自分の力不足でそれができませんでした。締め切りが迫ってからは、時間・場所を問わず書いていたような気がします。電車の中で書いた部分もあるほどです。ラストスパートをかけることもあまりできず、ある程度形になっていたものの精度を高めるというくらいで精いっぱいでした。
O:僕もとにかく直前まで加筆・修正を繰り返すだけですので、これといってそれまでの作業過程との違いがあったわけではありませんでした。気持ち的には、日々余裕がなくなっていったといったところでしょうか?
W:1、2年で章立てを考え、書きためたものをもとに全体をまとめ、足りない箇所を書き足して、最終的にまた全体をまとめなおすという試行錯誤の繰り返しです。それで1年。それでも時間が足りなくて、追いつめられる感じが結構ぎりぎりまで続いていました。あと余談ですけど、精神的に余裕のない時期もあり、周りに迷惑をかけたこともあったような気がしており、申し訳なかったと思います。

 

書き終わった今の感想はどうですか?良かったこと、悪かったこと、もっとこうすればよかったと思ったことはありましたか?

O:とにかく、時間がもっとほしかったですね。あまりにも強引にまとめてしまったので、そこはもっと時間をもらって考えたかった。でも、時間がないといいながら、何年あってもできあがらないんですよ。だから、やらざるをえなくなって書く。結果、消化不良な出来になってしまって・・・博士論文として提出するのがおこがましい気もします(笑)。
W:穴があったら入りたいですね。
O:良かったところは、とりあえず形にはなったというところ。どこかで形にしないといけないですから。でも、書き終えたら書き終えたで消化不良なところばかりが目につき、いつまでたっても納得がゆかない。まあ、「これで完成した!」って思ってしまえばそこで研究は終わりだと思うんですけどね。

 

イメージ通りの博論が書けましたか?書けなかったとしたら、それはなぜですか?

O:当初自分の思い描いた筋書き通りにはなりました。ただ、強引に辻褄を合わせたという部分もあるので、そこはもっと丁寧に作業したかった。
W:正直、力技だった部分があるので、うまくいったところとうまくいかなかったところがあります。完成度は落ちるかもしれませんが、とりあえずそのときの全部を出したという感じでしょうか。
O:書き終わってから、研究関連の文献みた?
W:見ましたけど、もう一回この研究をゼロから始めるとしたら、それはちょっとつらいですね。為したことは非常に小さなことですが、自分にとっては長い道のりでした。
O:僕は開く気にもならなかった。見たくないというか、なんだろう・・・また自分の書いたものへの不満がぶり返すと思うと、どうにもその手の研究書を手にすることができないんだよね。

 

論文を書くにあたって、まず何が大事だと思いましたか?

W:どんな小さなものでも自分なりの「問い」を立てること。あらかじめ答えがあることが分かっていて出題者がいる問題を解くことではなく、自分で「問い」を立てて結論に向かって書くことが大事であるように思います。そのための基礎的な勉強ももちろん必要でしょう。
O:とにかく研究を行うにあたっては「問題意識」を持つことが重要ですので、自分が書く論文で一体何を問題にするのかということを明確にすることが必要だと思います。

 

書いていて大変だったことを教えて下さい。

W:まとまった時間がとれず作業が細切れになることでした。研究に集中できるといいのですが、生活もあるし、働きながら研究をしないといけない。でもこれは仕方のないことです。それから文献収集にも時間がかかります。研究対象の表現の理解に時間を要することもあります。もっとすらすらと理解できる能力があれば良かったのですが。生活しながらの研究は時間が取れなくて大変ですが、それが博論を書けない理由にはならない。そこが大変でした。しかし見方を変えれば、自分なりの問題を頭の片隅に置きながら、時間や場所を問わずに考え続けるという生活は、存外楽しいものです。あとは、統一感を持たせることも大変でした。博論は修論やその他の自分の論文も組み合わせて作るので、筋道が通ってないといけません。しかし、何年も前に書いた自分の論文ですと、現在の自説と異なっていたり、文体も違っていたりして、それを組み込んでいくことに苦労しましたね。
O:僕もそう思う。博士論文を書くためには最低3本、査読付きの論文を書かないといけないし、それらを博論に組み込まないといけない。でも文体や考えが時間とともに変わることがあるんです。昔使っていた言い回しや解釈なんかを、原則手を加えずに、そのまま博論にも使わなければいけない。「ここに掲載した論文を、この箇所に使っています」という書き方をする必要があるから、一部改稿とかならいいけれど、全面的に内容が変わるとまずい。実際の論文と、以前書いた論文の内容が違ったらだめなんですよ。でも実際は内容まで修正しなきゃいけないくらいおかしなことを書いていたりすることが結構あるんですけどね。
W:その都度書いているときは手を抜いてるわけではないけれど、後々まで残ってしまう。
O:それも、論文を書いた当時はそう考えて書いていたんだから、「今から見れば」ということなんですけど。そこをどう修正するかが悩ましいよね。

 

ご自分の研究が進んだので、振り返ってみるとおかしく思える、ということですね?

O:そうですね。だからいざとなったら過去に書いた内容はばさっと切り捨ててしまいますね。内容的に矛盾が生じると大変ですから。「博論を書くため」の事前の計画が必要なんです。「いま、この章をかいている」ということを意識しないと、思い立ったまま書いて、まとめる段になってまとまらなくなるってことが起こってしまいます。論文全体のマッピングを作るだけで大変。だから逆に、これがちゃんとできていれば作業は早いのではないかと思います。

 

次に公聴会について少しお話し下さい。

O:公聴会は合計2時間(人間・環境学研究科の場合)でした。聞きに来てくれた人に1時間論文内容を説明して、1時間質疑応答でした。A4で6枚くらい(10,000字程度)の原稿を用意しましたが、早口になってしまい、30分で読み終わってしまいました。先生に「もう終わりか?」と言われちゃいましたよ(笑)。早口になってしまうのと同時に、原稿を読むと、どうしても専門的な言葉を多く使ってしまうので、聞いている人からすると、わかりづらくてしんどいんです。だから、本当は自分の頭の中で伝えたい事を予め整理しておいて、それを説明するほうが相手には伝わりやすいと思います。
W:僕は1時間論文の内容を報告し、その後質疑応答でした。理論的な中身や根本的なことを指摘されて、口喧嘩みたいになりました(笑)。売り言葉に買い言葉というか・・・あまり印象は良くなかったと思いますね。査読者の立場を考えると、意見が対立するとわかっていたから、仕方がなかったのですが、それがわかっていてもやっぱり大変でした。
O:修論だと、対立項ができあがるところまではいかないんです。言ってしまえば、修論は博論と比べて研究がまだまだ浅いんですね。博論は理詰めで自分の主張を形作っていく作業になります。そうなると、自分の主張がかなり鮮明に出てくる。読む先生方との意見の対立は起こり得るものだと思います。それぞれの解釈を備えもった者同士、お互い譲れないこともあるので、公聴会で喧嘩みたいになることも珍しいことではない。先生にもよるけど、まだまだ駆け出しの研究者だからって大目に見てくれる先生もいる。でも、真っ向から批判してくる先生もいる。合否の判断基準は、博士論文としての形式(理屈が通っているか、論文全体の筋が通っているか)がちゃんと整っているかどうかなので、内容面まで批判するような意見は出づらいのだけど、「理解の仕方が違うんじゃないか」と批判されることもありますね。

 

では、これから研究を始めようとする後輩に向けてアドバイスをお願いします。

O:受験勉強と大学院進学は全く別。ペーパーで点数を取る感覚と、論文で勝負することは全然違う。大学院に入ってから要求されることも違う。詰め込み型の知識は研究を行うための前提で、それから先が大事。「その知識に基づいて君はどう考えるの?」というところが大学院では要求されます。
W:研究は誰も問題を出してくれません。自分で問題を作って答えを見つけるものです。答えが出るかどうかもあるかどうかもわからない中を突き進むようなものです。受験勉強は答えがあるし、出題した人もいる。
O:解法を自分で作るしかないのが大学院。
W:だから失敗(結論が出せない)も多いし、無駄になることもあります。
O:すごく単純なことでも、なんでそんなところで立ち止まるの?というところでこだわってしまう人が大学院に向いていると思います。情報への処理能力があって、小さなことは問題にせず、ス~っと先に進めるような人は向いていないんじゃないかなと思います。他の大学にいた時、指導教官から「大学院という場の悲惨さを知っているか?」と言われたことがあります。「ここを出たって職はないよ」と。研究者になりたいのであれば、自分の実力で勝負しなくちゃならないってことですね。でも若いころは、先生のこの言葉の意味が理解できなかったんです。大学によっては、研究者としての将来も望めるのではと思っていました。でも実際には、有名校の大学院を修了したということだけではだめなんです。
W:京都大学は研究環境としては整備されていますが、ただたんにそこに「いる」だけではあまり意味がないと思います。大学院にいたからといって、その後も上手に世の中に出ていけるわけではなく、一般に要請されるスキルとは違うもの、借り物ではなく自分で粘り強く考えることができるかどうかを問われます。

 

最後に、お二人にとって研究とは?

W:自分の考えていることを、他の文献を借りながら、書き表していくこと、ですかね。一直線に突き進んでいる感じではなく、立ち止まりながら考えてまた進むという・・・ことばでうまく表すのは難しいですね。
O:研究の理想でも良いのであれば、例えば目の前に机があるという事実を描き出すこと、だと思っています。誰にでもわかるような事実を見つけ出すこと。でも、そんなものってそもそもあるんですかね?そうなると、研究って・・・なんだろうね(笑)。分野にもよりますが、自分の考えたことを理論的に積み上げる過程が研究、と言えるのかもしれないですね。 

-どうもありがとうございました。

 

論文を書くにあたって、いろいろな苦労もあり、また時には落ち込むこともあったとお聞きし、「産みの苦しみ」のようなものを強く感じました。
論文作成にあたっては、当館の資料やILLサービスも利用していただき、効率的に作業できたとのことでした(お役に立ててうれしいです)。

最後にお二人から伺ったのは、「博士論文を書き終えることがゴールではない」ということ。今は「燃え尽きた」感覚だとも仰っていましたが、これからも、今まで自分がしてきた研究を続けていきたいというお二人の言葉が印象的でした。
お二人とも、お疲れ様でした。そして、これからもご自身の研究にまい進されることをお祈りしています!(M)

 

 

 

*1:ドイツの思想家。典拠:世界文学大事典[ジャパンナレッジ]

*2:シャルル・ボードレール:近代フランスの詩人。典拠:日本大百科全書[ジャパンナレッジ]

*3:哲学者、マルクスおよびマルクス主義研究者。典拠:日本大百科全書[ジャパンナレッジ]

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