ノルウェーの事件に寄せて

予想されたことではあるが、日本でもこういう論調が幅を利かせてるようだ。


ノルウェーでのテロ事件と日本

http://news.livedoor.com/article/detail/5738369/

ブレイビグ容疑者が敵視したイスラムは、生活規範として信仰者の日常生活行動を規定する面がある。また、外国人移民が有する同郷・同民族などの連帯意識により、国家内に別の国家のような移民地域ができることがある。このため、EU諸国内では、オランダの自由党をはじめ右派政党の台頭が見られ始めている。ブレイビグ容疑者はこのような右派思想の活動家であり、犯行目的は移民排斥だとも伝えられている。

もちろん、その目的を爆弾テロと銃乱射という方法で追って達成できるわけではない。しかし、この衝撃的な事件によって、外国人移民問題が抱える(1)宗教と民主主義の関係、(2)多文化主義の矛盾など、問題の本質ともいえる要素について一般市民が考えるようになるだろう。一方、この事件を契機に治安関係機関の強化、監視カメラの設置、インターネット内のチェック、武器・薬品類の販売管理などが進む可能性があり、極右によるテロ、イスラム過激派によるテロなどの予防強化が図られることも考えられる。


筆者は、「移民排斥」という目的には反対してないようである。
そして、目的は分かるが手段は滅茶苦茶だといって非難するわけでもなく、「この衝撃的な事件」によって、「外国人移民問題」の本質ともいえる要素について「一般市民が考えるように」、もっとはっきり言えば直視し考え直すようになるだろう、というのである。
ここで「犯行」や「行為」という表現が使われず、「事件」という語が選ばれているのは、この大量虐殺行為に対する価値判断を筆者が避けていることを示しているだろう。
今回の虐殺行為をどう捉えるのかという判断、またこの事件の犠牲者や、この出来事によって脅かされ最も深刻な影響を蒙るのは、どういう人たちなのかという考えは、この文章では示されない。


そうして、あたかも客観的な分析のように、「一般市民が考え直す」だろう、と語るのだが、もし今回の犯行がそういう帰結をもたらすなら、それはこの犯行に、容疑者が意図したような効果があったということになる。
この文章は、今回のような虐殺行為が明白な悪であるという価値判断の表明(つまり明確な非難)を、あえて差し控えながら、「一般市民が考え直す」だろうという(つまり、容疑者の意図は果たされるだろうという)推定を当然のことのように書き記すことによって、この効果(容疑者の意図)の実現を預言的に後押ししている。
つまり、こうした物言いは、今回の犯行と同質の暴力を行使しているのであり、あえていえば、テロ行為の一翼を担っているのだ。
こうした言説は、暴力を容認しているというだけでなく、それ自体が人々に脅威を与える「言論の暴力」だ。


それは、虐殺行為とそれを行った者とを明確に非難することなく、あたかも容疑者が敵視した「移民に寛容な」社会の側に、ということは、今回殺されたり、事件によって脅威を感じている人たち(世界中に居るだろう、日本にはとりわけ)の側に、その原因があるかのように語る、悪質な排除の暴力に満ちた言論だ。
この文の最後に、治安対策の強化という、やはり預言的な分析が、(「イスラム過激派」という言葉まで使って)語られているのは、偶然ではない。なぜなら、このような排除の暴力は、まさしく治安を強化し、社会から他者を抹消していこうとする、国家の暴力でもあるからだ。






上の文章に続いて、こう書いてある。

ノルウェーのテロ事件が、遠く離れた日本に投げかけたものは、周囲の大きな社会変化に対応するため自らの社会を急激に変えると、その反作用が起きる可能性があるということである。


筆者の意図するところが、日本社会に「急激」な変化を起こすべきではないということ、つまりは「寛容」な移民政策をとるなということにあるのは明白だろう。
排外主義者がテロ行為を起こすのは、移民が増えて社会が急変することに原因があるのだという、お馴染みの主張である。
こうした考えは、移民や外国人に対して開かれた社会になることが、避けることの出来る選択であるという前提に立っている。つまり、われわれは「閉じた社会」(筆者の語で言えば、バランスのとれた社会)という道をとるなら、排外主義の暴力の出現からも当然逃れられるという、発想が根本にあるのである。
だが、それはまったくの錯覚だ。なぜなら、排外主義の暴力は、移民の増加というような遇有的な原因から生じて、限られた個人や集団によってだけ発現するものではなく、われわれの国家と社会に元々根付いているものだからだ。
つまり、われわれの国や社会(北欧の国であっても)が、元々排外主義的暴力に満ちているから、こうした事件や動向が生じてくるのだ。
また、むしろ「移民問題」は、このわれわれの内なる(排外主義的)暴力によってこそ発生している。


移民問題」というような不幸な形で、人が国境を越えて移動せざるを得ないという事態は、ヨーロッパやアメリカや日本のような先進資本主義国によって、もっぱら引き起こされてきたものである。
この根本的な暴力が、世界のなかの一定の人々を、たとえば「移民」や「外国人」というような不利なカテゴリーの存在として生きさせている。
「移民」という、一見するとわれわれの「外部」のように見える人たち、ただ遇有的に私たちの社会のなかに存在するようになったかのように思える人たちを、そういう特殊な(不利な立場の)ものとしてそこに存在させているのは、この私たちの社会の暴力性自体である。
この暴力性は、元来国家が有しているものであり、個々の排外主義者や団体による暴力は、その部分的で、(通常は)いくらか逸脱的な現われに他ならない。今回の事件の容疑者は、数十人の人命を奪ったが、私たちが構成しているこの社会は、日々どれだけの他者の命を奪っているか、見当もつかないのだ。


「移民」のような人たちを、生存に不利なものとして存在させているのが、私たちの社会そのものの暴力性だとするなら、この社会を、より「開かれた」ものにしていくということは、少なくとも倫理的には不可避の選択である。






伝えられた、ノルウェーの首相の追悼演説は、たしかに見事な内容だ。
「寛容」で「開かれた」国への道を歩み続けるという意志の表明には、いまや差別的な国家の実態を隠そうともしなくなった日本の政治家たちの言動と引き比べれば、なおさら感銘を受けないではいられない。
ただ、私たちが忘れてはいけないのは、「寛容」で「開かれた」国や社会を目指すという選択は、何か善意の自由意志のようなものの結果として、われわれがなしうるものではないということだ。
それは、私たちが、私たち自身の暴力性を引き受け、そこから脱却していくために、選択せざるを得ない不可避の道である。その道を選ばず、この国家的な暴力性のなかに留まり続けるなら、つまりは「閉じられた」社会を選び続けるなら、私たちは、ただ国家による非道な暴力の下で生きて死ぬだけのことである、多くの他者を(私たちよりも先に)道連れにしながら。実際、今の日本では、そのことが明白になっている。
私たちが、真に生きようとするなら、「開かれた」社会以外の道はない。


今回の事件の報道で、はじめから気になっていたのは、「こんな小さな平和な国」に、このような恐ろしい出来事が起きた、という言い回しである。
この虐殺によって激しい衝撃を受けただろうノルウェーの人たちが、そういう表現を用いるのは、理解できなくはない。
だが、とりわけ日本のメディアにこういう表現があふれているのを目にすると、その「平和な国」の像を日本に重ね合わせ、恐ろしい暴力や理解不能な他者の脅威を除去することによって、その「平和」や国民的統一を守ろうとする意図、悪く言えば、「平和」や「団結」と「寛容」とを秤にかけて、後者を切り捨てようとする思惑を感じてしまう。
実際には、暴力も、他者にまつわる不安も、すべて私たち自身、私たちの国と社会とにこそ起因するものなのだということを、知らなければならない。
ノルウェー首相の高邁な演説は、その内なる暴力を克服して行こうとする(そのことによって、真に他者へと開かれようと欲する)、まったく主体的な決意の表明としてこそ、聞き取るべきものだと思う。