「死」とは悲しいものなのか ―― 。
この種の「問い」に今さらながら対峙するとは思ってもいませんでした。
これまでの當寮の記事を渉猟して頂ければ分かるように、私は今まで「身内の死は遺族にとって悲しいもの」という大前提のもとに色々な想いを綴ってきました。
しかし、先日ふとしたことから、この大前提が実は砂上の楼閣でしかないということに気付かされました。
実は薄々気付いていたかもしれません。それを認めたくなく、意図的に目を逸らしていただけかもしれません。もちろん全ての方ではありませんが、こういう時代からか、時折葬儀の場でそれと似たような感覚を感じたこともありました。
このご遺族の方は、葬儀という仏事を介して故人を送ることにどのような意義を感じているのか 本当は葬儀など必要ないと思っているのではないか そう思えるような空気を少なからず感じたということです。
それを今までは、単に自分の僧侶(祭祀者)としての力量不足だと戒めていました。もちろんその一面も否定できませんが、明らかにそれとは違う、何かその場に故人が存在しないよういな違和感を覚えることがあったのです。
以前は、そういう空気を感じ取る度に、自らを鼓舞して誠心誠意その任に当たるようにしていました。また、葬儀自体の意味や歴史なども勉強し、ことある毎にご遺族の方と膝を交えて話もしてまいりました。しかし、もともとご遺族の側にその意識が欠けていたり、もちろん全ての方ではありませんが、単に世間体とか見栄の部分で葬儀を捉える意識が少しでもあれば、それはもう努力すればするほど距離が開いていくような感覚もありました。
しかしそれは、身内の死が悲しくないという前提に立てば当たり前の話です。こちらは葬儀で故人を見送ろうという立場なのですが、相手は効率よく遺体を処理したいという立場だからです。言葉が過ぎるかもしれませんが、「死」に悲しみが伴わなければ結局そういう問題に帰着します。
そういう世の中が良いのか悪いのか、実は今の私には正直分かりません。「分からない」といのは、今まで身内の死が「悲しくない」という場面に遭遇することすらなかったからです。だから「分からない」のです。
今の私が僧侶(祭祀者)として葬儀に携われるのは、そこにご遺族の方々の「悲しみ」があるからです。それなくして葬儀に携われるほど、私には才覚も器量もありません。目の前に悲観に暮れるご遺族がいるからこそ、日本の仏教は葬儀という「生き死にの現場」に積極的に携わってきたのだと思います。また、これからもある種の使命感を以て携わるべきでしょう。
以前、他寮でも「人を殺して何故悪いのか!?」といったテーマについて延々と戯論を交わした経緯がありました。
私のなかで今まで設定することすらできなかった「問い」さえ、今の世は当たり前に語られる時代になってしまったのでしょうか。いや、語れられること自体は自由であっても、そこに今まで想定し得なかった回答が飛び交う時代になったのでしょうか ―― 。そういう時代を、僧侶として、いや一人の人間としてどう生きていけばよいのか正直不安になる時もあります。
そういう時代であるならば、約二千五百年前に釈尊が抱いた人類普遍のテーマ、例えば「生老病死」との対峙による四苦八苦なども、思索に値しないテーマなのかもしれません。そのテーマに無頓着な方にとっては、生きる良薬である仏教も単なる記号の羅列でしかないのでしょう。
今回は、仏教の存在意義を根底から揺さぶられ、私の中で深く深く「死」について考えさせられる機会ともなりました。そういう時代に生きる私は、たとえ時代錯誤と揶揄されようとも、人の死を当たり前のように悲しめる人間であり続けたいと思います。合掌
一押し頂けたら幸いです
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先日も触れた叔父の遺族も、当初は葬儀をしない(=直葬)考えの様でした。
理由を聞けは、葬儀をするのが煩わしい(葬儀にお金をかける事はもとより、親族や会葬者との付き合い等が煩わしい)と考えていた様です。
叔父の妹(実の妹)が電話で遺族に、葬儀についてどうするのかと、もしも早く聞いていなければ、叔父との最期のお別れもなく、私達親族や叔父の多くの幼なじみも、恐らく「心の整理」がつかないまま、何とも言い難い淋しさとショックだけが残ったと思います。
私の地元は、仏教の習慣が色濃く残る地域ですので、尚更…。
葬儀は、本来ならば、「遺族となった家族」がケジメをつける機会でもあり、親の死に接した子ども達は、「死」について深く考える絶好の機会なのだと思うのですが…。
その様な経緯もあり、また、故人が望んでいた気持ちを汲んで、「できれば生まれ育った地元で、どんな形であれ、弔ってあげて欲しい」という、私達親族からの強い要望で「形」として、葬儀は行われました。
しかし、遺族としては、周囲からの「外圧」に負けた格好になる訳で…。恐らく不本意だったのでしょう…。
多分に、このような事も、「遺族を悲しみから遠ざけてしまった」要因なのかも知れません。
ただ、人間として、たまたま○○家の子どもとして生を受け、兄弟妹となって苦労と共に協力しあって生きてきたにも関わらず、最後の肉親との最期の別れが無かったかも知れない…なんて何とも寂しい事です。
私達身内も、周りが叔父の死を悲しむ一方で、「遺族」に悲しみの感情が感じられない葬儀やその後の行動を受けて、正直、戸惑いと違和感を感じています。
また、故人が生きてきた証として様々な「御縁」があり、その方々から遺族も知らなかった故人の一面を伺い知る事ができるのも葬儀、若しくはお別れ式あっての事です。
私は、決して「遺族は悲しむべきだ!」等とは申し上げてはおりません。
ただ、特に身内の死になると何かとバタバタしてしまいますが、一段落した時にでも「死」という現実に対峙し、自らの心をよく見つめていきたいものだなぁ…と、私は常々考えています。
>葬儀にお金をかける事はもとより、親族や会葬者との付き合い等が煩わしいと考えていた様です。
今の世の中、そういった方が増えてきているのも事実なのでしょう。そういった方々の気持ちも分からなくもありません。また、生前の家族間の感情のもつれも引きずる部分があるのでしょう。その点も含めた「故人が存在しない葬儀」が増えているような気がします。
昔は、そういった生前の感情抜きにして、その相手が鬼籍に入られたら全てを水に流して手と手を合わせたものです。そういう価値観がまだ共有できていたような気もします。別にそのことの是非を問うこが目的ではないのですが、そういった時代の方がまだ人としての温かみが通じ合ったような気もするのです。
こういう忙しい時代ですから、親族や会葬者との付き合いが煩わしい気持ちも分かります。私だって当事者となれば同じ感覚に襲われるかもしれません。しかし、だからといって直葬という選択肢を頭をかすめるのも大人気ない気がします。
やはりその立場(喪主や遺族)を責任もって勤めることにより、何か学ぶものや得るものがあると思います。儀式というある種のけじめは、人が成長する過程で無視できないものです。そこまでも略そうという人間の心理は、私はあまりにも幼稚なものと感じます。
我々は儀式のもたらす意味を、改めて再確認する必要があるのかもしれません。このままいくと、そのうち入学式や卒業式、成人式といった節目節目の大事な儀式(行事)をも略し兼ねない国になってしまうものと危惧します。
儀式を通して人はある種の責任を自覚し、またそこに自らが置かれた立場を自覚していくのではないでしょうか。今は、正直楽をし過ぎる時代なのだと思います。疲れた身体を癒すことと、けじめをつける機会を放棄することを混同してはいけないと思います。
その辺は同じ価値観を共有して戴けているものと思います