Facebookの致命的な弱点は何か?

日本でFacebookの普及を妨げているのは、実名主義ではない、かもしれない - in between daysを読んだ。本記事では、Facebookmixiのような流行につながらない理由として、匿名主義を排し、「インターフェースが日本人には不向きである」ということを第一に挙げている。

日本でFacebookの普及を妨げる要因があるとすれば、匿名・実名よりもむしろこの点、インターフェイスに対する違和感なのではないだろうか。実は、このあと説明するように、Facebookインターフェイスは実に良く出来ている。ただ、その方向性が、日本人には向いてないのかもしれない、とおもわないではないのだ。

基本的に、私はこの意見に対し口をはさむ気はない。また、日本人は匿名主義に陥っているためにFacebookのような「実名主義」のサービスには加入したくないのだ、という意見を支持する気もない(そもそも、昔はmixiだって実名登録を推奨していたのだ)。私は二点、決定的にfacebookmixi、ひいては日本の文化に対し合わない点があると考えている。

ひとつは、どう考えてもローカライズ、日本語対応の面であろう。Facebookでは自らの経歴を記述することが推奨されているが、例えば卒業高校ひとつとっても「東京高校」「東京高等学校」「私立東京高等学校」「Tokyo High School」などの表記が混在しており、我々はその中からどれが主たる表記であるかを瞬時に探すことができない。mixiの場合、コミュニティ検索を利用してメンバー数からおおよそどのコミュニティが主たるそれであるのかを推測することができるが、Facebookの場合、そこにたどり着くためには、入力画面から数ステップ必要となっている。名前の登録に関しても、漢字表記、ヘボン式ローマ字表記、日本式ローマ字表記などが入り混じっており、実名登録を推奨しているわりには記載方法が厳密に定められていないため、友人を見つけだすことが非常に難しい仕様となっている。もちろん、海外では我々が赤外線通信を行うのと同様の感覚で、Facebookの個人アドレスをやり取りするような文化があるのかもしれないが、そのような文化が築かれる前の段階を、日本ではクリアできそうにないのが今のFacebookローカライズ対応なのである。

もっとも、それ以上に思うことがある。それは、mixiが個人よりもグループに主眼を置いており、個人間のつながりに関しても、グループを介したそれを重視しているのに対し(もっとも、Facebookが広まり始めてからの「改悪」によってそうでもなくなってしまったのだが)、Facebookはむしろ直接的な個人と個人のつながりを重視しているという点である。mixiには、「コミュニティ」機能があり、多くの人物が自らの属性の表明や連絡のために「コミュニティ」機能を利用している。そう、属性の表明のために、一般的には自己紹介欄よりもコミュニティへの参加が選ばれることが多い。また、メンバーをグループ別に分ける機能や、日記などの公開範囲を選ぶような設定も存在しており、我々はそこで「グループの中の一人」ということを意識せずにはいられない。対してFacebookでは、属性はグループにあるのではなくあくまでも個人にあり、共通の属性を持った人間の集まりがグループとして認知されるような構造となっている。事実、彼らの提供するグループ機能はあくまでも「おまけ」的な位置づけに終止しており(知恵袋やOKWaveで検索すると、「Facebookにはmixiのようなグループ機能はないの?」という質問が山ほど出てくる)、mixiのように「コミュニティにも主眼が置かれている」ということはない。いや、探せばそのような機能は実はあるのだが、インターフェースの奥底に意図的に沈まされているのだ。*1
私は、別に「日本人は個人主義的ではない」等と結論付けるつもりはない。あくまでも、両者の思想が違うのだろう。mixiというのは、個人のつながりよりもコミュニティを維持することにも適しているが、Facebookは徹底的に個人のつながりを維持することに適している。それだけのことである。実際には、mixiFacebookも双方の機能を搭載していることにはしている。しかし、インターフェース上の設計を考察するかぎり、Facebookは明らかに個人に主眼を置いているのに対し、mixiはグループというものを重要視しているように思えるのだ。

これは、mixiはただ単にFacebook的なものが流行しているからと言って、その要素をやみくもに取り入れればいいわけではないことも表している。Facebookに欠けているものとしてのコミュニティ維持機能について、彼らはそれを一つの貴重な財産だと意識したうえで設計を行うべきなのではないか。そう考えると、Facebookが台頭したあとのmixiは、本当に迷走しているとしか言いようがない。トップページ、とくに新着通知部分はかなりfacebookに近づいたところがあるが、mixiFacebookのものまねをしたところで、Facebookが2バイト文字の不自由さを解消してしまえば、mixiの必要性などどこにもなくなってしまうのだから。

先ほどの記事では、「Facebookでの体験は友だちがすべてなのだ。」という一文で記事が締められていた。私はそこに、次の文を追加したい。そう、「mixiでの体験は、コミュニティがすべてだったのだ。しかし彼らはFacebookという『毒盃』をあおってしまったのだ」と。

*1:なお、もしかしたらこれはFacebookはもともと一つの大学のための専用SNSであったからかもしれない。