「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」との差について

◆無邪気な読解への懐疑◆

今日、少し時間の空いたときに携帯からツイッターを眺めていると、

「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と聞くとふしだらに聞こえるけど、「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」と聞くとまじめに聞こえる。まったく同じ事を言っているのに受け取る印象は正反対。[……]

といった記述のあるツイートが流れてきた。
 それはそれで一つの考え方だと思った。ただ、厳密に言うと少し違うと思った。
 そこで、ここではこの文章を起点として、言葉のとる面白い挙動について少し考えてみたい。

◆先に結論◆

「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」と「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」のニつの文は"別のもの"である。
「ニつの文は全く同じ事を言っている」と発言することでニつの文の背景や文脈を取り除く。そうしてはじめて、ニつの文は「全く同じことを言っている」と言えるようになる。文の意味が変化する。
 最初から同じなのではない。
 これら二文に「〈望ましい〉 or 〈望ましくない〉」という反対の評価が与えられるのは、これら二文に「〈規範に従い名誉に値すると世間様が思うもの〉 or 〈規範からはずれて侮辱に値すると世間様が思うもの〉」という、反対の文脈が含まれているからだ。

◆本エントリの目的◆

1)単語が起動する文脈について考える
2)文脈が操作されて、まったく変わってしまったことを考える

◆本エントリの目的でないもの◆

1)元ネタ発言者への非難・攻撃
2)名誉と規範の体系への評価*1

◆本文◆

◇二文の真の意味(単語が起動する文脈について)◇

話題にする文章をもう一度よく見てみる。

A)「女子大生が夜キャバクラでバイトしている」
B)「キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいる」

 件のツイートでは、このニつが「まったく同じ事を言っている」と指摘されていた。そう言われれば確かに同じ事だと思える。
 しかし、A、Bの二文を初見で読んで、直観的に「二文は同じではない」と感じるのが、おそらく一般的な日本語話者の感性だろう。だからこそこのツイートは「意外性を訴えるもの」として成功しているのだ。
 では、何故「同じではない」と思いながら、その後「同じことを言っているのかも」と納得させられてしまうのだろう。
 それについて少し考えてみると、一つの結論が出た。『AとBのニつを読んだ後に「ニつは同じ意味です」と言われた瞬間にAとBは同じ意味になる。そして、そう言われる前のニ文は別の意味である』という結論だった。

◇……それってつまり…どういうことだってばよ?◇

少し突っ込んだ説明をするには、まず、この二文が明示的には含んでいない「文脈」を目に見えるようにする必要が出てくる。
 そこで、AとB二文の違いがはっきり分かるように、補って書きなおしてみた。(念のために書いておくが、これは私の価値観ではない。だが、世間一般で、こういった見方をされるであろうという内容を、分かりやすいように誇張して書くとこうなるだろう、という内容*2だ。)

A')
「女子大生(という金銭的にはその仕事をする必要のない身分の若い女性)が、(ほんらい勉強や健全な交友に充てるべき時間である)夜に、(貞淑という美徳を省みること無く、カネが欲しい一心で、本来ならそこで働く必要などあり得ない)キャバクラで(正規労働ですらない卑しい)バイトをしている。(だからけしからん。)」

B')
キャバクラ嬢(という金銭的に困窮しており、水商売という卑しい職業につかねばならないような、教養もろくにないであろう人間)が(本来そういった連中が眠っているであろう)昼は大学で(少ない教養を高めて、その賎しい職業から脱出し、すばらしい一般人の世界で暮らす、まっとうな職業のまっとうな人間になるために)学んでいる。(だから立派である。)」

このA'とB'の二文を読んで、「同じことを言っている」と思う人はいないだろう。つまりはそういうことで、本来AとBはこのくらい隔たった文章なのである。
 「元の文にはそんなことは書いていないだろう。お前の勝手な解釈に過ぎないよ。」と思う人もいるかもしれない。その考えはそれで、ある面では正しい。しかし、ある面では間違いだ。
 もし元の文A、BにA'、B'のような意味が全く、カケラも含まれていないのだとすれば、何故、

受け取る印象は正反対

という現象が見られるのか。何故、私たちはこの「正反対の印象」を理解できるのか。
 もし、元の文の意味がまったく文脈を含まない、絶対的な独立性をもつ文章*3であったとすれば、そもそも今回話題にしている文章の意味が私たちには読み取れないはずだろう。しかし、実際には読み取れてしまうのである。
 この点を理解するには、少し抽象化して、元のニつの文章の単語を置き換えてみると良いかもしれない。
 もし、ニつの文が本当に「全く同じ事」を言っているのだとすれば、「女子大生がキャバ嬢だ」「キャバ嬢が女子大生だ」というように提示の順番を入れ替えると、「ふしだら」が「まじめ」というように評価が逆転することになってしまう。そこで、この構造はそのままに、文章を簡略化する。

文脈を切り離した文例:
「リンゴはミカンでない」というと悪く聞こえるが、「ミカンはリンゴでない」というと良く聞こえる。まったく同じ事を言っているのに受け取る印象は正反対だ。

誰かこの文章の「真の意味」が分かった人がいたら説明して欲しい。私には分からない。少し考えれば分かるが、提示の順序を逆にした程度で受ける印象が反対になるわけはないのだ。
 「」で括られたニつの文の意味は、論理的にほとんど同じ*4だ。ほとんど同じであるから、同じ事を言っているように聞こえるし、受け取る印象もほとんど同じである。

 この例を通して私が言いたいのは、とても簡単なことだ。受け取る印象が正反対なら、当然、言っていることは正反対である。AとBの二文が正反対に読めるとすれば、「正反対の何か」を、「言葉の、表面上の意味より余計に読み込んでいる」から、AとBは正反対の意味に読まれるのだ。

◇では、何が読み込まれたのか◇

いったい、何が「余計に読み込まれた」のだろう?考え方はいろいろあるが、ここではそのうちの一つだけを考える。「単語が暗示する文脈」というものだ。

◯A,Bに出現した、価値対立的な言葉◯
・女子大生
キャバクラ嬢
・バイトしている
・学んでいる
・夜
・昼

これらの単語を見て、一般的な日本語母語話者なら、色々な連想ができるはずである。
 AとBの文脈で言うなら、『女子大生』はより「まっとう(規範的)な」身分であり、ある面では(男子学生と同じく)「まっとうに」消費される性の対象である。『キャバクラ嬢』は「まっとうでない(脱規範的な)」身分であり、ある面では、(イケメンホストと同じく)「まっとうでなく」消費される性の対象である。『バイト』とは正規雇用でない「まっとうでない」労働であり、『学ぶ』とは「まっとうな」行動である。『昼』とは秩序に従って運行する「まっとうな」領域であり、『夜』とは欲望が野放図に活動する「まっとうでない」領域である。*5
 これらは、単語が起動する「文脈」の一部である。そんなものは出てこない!などと言った所で無駄なことで、私達は逆らいようもなく単語から背景に潜む文脈を読み取ってしまう。「"夜の"お菓子」という単語からは"性欲の匂い"がするし、「"昼間の"パパ」からは"社会で働く"パパの姿が思い起こされるのだ。
 実際は「夜のお菓子とは、夜間限定発売のお菓子を意味する」かもしれない。「発言者のパパは魚河岸で働いているから昼間は寝て深夜〜早朝に魚を売り買いしている、故に、昼間のパパとは寝ているパパを意味する」かもしれない。しかし、そういうことを言うと「理屈っぽい」とか「変なやつだ」とか言われたり、嫌がられたり、からかわれたりするのが普通だろう。*6
 言葉とはそういうものであり、ある言葉はそれが暗示する文脈を影のように、あるいは体臭のように含んでしまうものなのだ。

◇AとBが本来意味していたこと◇

そして、「女子大生→キャバクラ嬢」というのは、この文脈を含めて読めば「高い名誉の状態から、低い名誉の状態への推移」と見なされるのである。すなわち「下降」なのだ。「キャバクラ嬢→女子大生」は、その逆で、「低い名誉の状態→高い名誉の状態」だ。つまり「上昇」と見なされる。
 ある一点での姿は同じものに見えるかもしれないが、これらが内部にもつエネルギーの方向は正反対なのだ。
 だから「AとBは(世間的には)正反対の意味だろう」という、直観的な読みはとても正しいものだった。

◇文脈の消滅と、「まったく同じ意味」の出現◇

しかし、影や体臭は消すことができないにしろ、外部から干渉できるものでもある。風呂に入れば体臭は石鹸の匂いになるし、影は光のあてかた次第で変化する。正反対の評価が与えられるAとBの二文が、外部からの干渉によっては突然「まったく同じ」影や体臭を纏うことがある。
 今回の場合、干渉は簡単なものだった。書き手が、「ニつの文章は同じ意味だ」と言ったのだ。「ある女性がニつの場所で並行的に活動している」というニつの文章を提示した後に「このニ文の意味は等しい」と言ったのである。「別のものから、同じ意味を抽出しろ」と読者に指示したのだ。
 素直で正しい読者は「この二文の意味は等しい」という新たに起動した文脈に従ってAとBを再解釈した。本来そこに立ち上がっていたA'とB'の文脈を、読者自身が、自分の手でかき消したのだった。
 本来そこになかった文脈を新たに書き加えたから、本来そこにあった文脈の意味が消えたのである。

◆要するに◆

AとBの二文は、「元々同じ意味だった」のではない。発言者の手によって、「元々同じ意味であったことになされた」のである。
 しかしこの意味の推移は、読者からほとんど意識されることがない。そこに元ツイートの面白さがある。面白い「読解」の性質だと言える。*7

◆ところで、何でこんな長文書いたの?バカなの?◆

いやぁ〜、言葉って、本っ当ーに、面白いもんですね〜〜!(水野晴郎顔で)

履歴

2011/11/29:
・元ネタツイートはもう見つからないだろうと思っていたが、ググったら一発で見つかったので文中にリンクを載せた。しかも、既にふぁぼっていた。ググレカスからの裁きが下ったのやもしれぬ…。
・誤字訂正と表記ゆれの修正をして、脚注に少し手を入れた。
言葉が少しきつかったようで注意を受けたので、表現をすこし柔らかくした。確かに「誤りを含む」は言い過ぎだった。
・同上の理由から、「◆要するに◆」に脚注を加えた。
2012/01/11:
・誤字脱字、段落切り、表現の微修正
2012/01/24: やたら偉そうに見えたので、[えらそう]タグを追加。

*1:"お世間神の、規範と名誉の体系"はぶっ潰れてほしいと個人的には思うけど、時間もないし書いても読む人がいないので、ここでは論題にしない。

*2:世間一般でこういった糞みたいな価値観をもって活動すると「常識的」と評価されて平和に暮らせるが、こういったカエルのションベン以下の価値観を否定しながら生きると「変わり者」として白い目を向けられる。これらの、人間として見苦しい価値判断は、私が人生の中で否応なく学習せざるを得なかったものでしかない。つまりこれらは「衆愚的価値規範」に則った解釈である。私は、これが平均値(最頻値)的な意味での「世間の価値規範」だろうと推定している。「悪法もまた法」なのと同じように、「悪しき規範もまた規範」である。この規範から逸脱しながら生きていくリスクを見積もるには、まずこの規範をある程度知る必要があるので、私はけっこう真面目に学習した。

*3:そんなことはどんな単語、どんな文章にもあり得ないが。

*4:ここの文章を、例えば「A → ¬O」「O → ¬A」のように読む人にとっては、二文は全く同じ(対偶)だろう。だが、言語と論理式はそんなに厳密に対応しない。対応すると思ってしまうのは私も同じだけども、コピュラ(「だ」や「be」)は導出(→)ではない。また、焦点などの要素でも異なるだろう。

*5:繰り返しになるけれど、ここでいう「まっとう」というのは「多数派にとって好ましい様子」くらいの意味でしかない。これも繰り返しだが、私はこういうものの見かたが嫌いだ。

*6:少なくとも、私にはその経験がある。

*7:元ツイートは、この「別の意味を同じ意味にする手法」の価値を訴えるものに思える。私もこの主張は正しいと思う。本エントリでは「最初から同じ意味だという主張は事実と異なる」と論じたが、「結果としては同じ意味になる」とも書いた。元ツイートは「結果が同じ」になるのなら成立する話であるから、私の論は元ツイートの主旨をそもそも左右できないし、する気もない。