◎振り仮名こそが本文である
昨日、『かたわ娘』を、刊行当時の原文に近い形で紹介した。それほど長い文章ではないが、コラムの読者にとっては読みにくい文章だったはずである。その理由はどこにあるのか。句読点が施されていなかったからか。もちろん、それはあるだろう。
使われている言葉が古いからか。多少、それもあるだろう。もっとも、『かたわ娘』の中で使われている言葉で、今日、完全に死語になっているものは少ないようである。
漢字で表記したほうがわかりやすい語句が、ひらがなで表記されているからか。多分これもある。たとえば、次のような言葉については、漢字で表記されていたほうが意味が取りやすかったかもしれない。
かほかたち 容貌
うるし 漆
あいきやう 愛嬌
たどん 炭団
ではうだい 出放題
おはぐろ お歯黒
ふし 五倍子
まんぞく 満足
逆に、漢字で表記されているために、読みにくい、読めない、あるいは正しい読み方がわからないということがある。昨日紹介した「原文」が読みにくい理由としては、おそらくこれが最大のものではないか。
富家 フカ
初生 ウブ
兎もあれ トモアレ
初生歯 ウヒバ
初花 ハツハナ
竊に ヒソカニ
文盲連 モンモウレン
兎も角 トモカク
宿業 シュクガウ
斯る カカル
報 ムクヒ
嘲り アザケリ
面色 メンショク
面 オモテ
過劇 カゲキ
医師 イシャ
神仏 カミホトケ
出来べき デクベキ
我身代 ワガシンダイ
憚る ハバカル
術 ジュツ
聟 ムコ
鳴呼 アア
片付 カタヅキ
粉 コ
用て モチヒテ
疵 キヅ
付て ツケテ
漸く ヤウヤク
借着 カリギ
慢に ミダリニ
すなわち、昨日の「原文」は、これらの言葉の「読み方」がわからなければ、意味が通じなかったり、意味を取り違えたりする可能性がある。仮に、一応は読めたとしても、それが正確な読み方かどうかの不安は消えない。
さいわい、福沢の「文字通りの原文」には、ほとんどの漢字に振りがなが振ってある。当時の読者が読み方をまちがえる可能性はゼロに近かっただろう。
何回か前のコラムで、『中車芸話』の中で、白内障に「そこひ」というルビを振っているケースに触れ、「そこひ」が口述者の言葉で、「白内障」は筆録者がそれを「漢訳」したものだろうと述べた。
同様のことが、『かたわ娘』に出てくる多くの漢字表記についても言える。振りがなにあたる部分が福沢諭吉が発しようとしたナマの言葉であり、漢字の部分は、それをみずからが「漢訳」的に書きあらわしたものではないのか(「例外なく」とまでは言わない)。すなわち、先に漢字による表記があって、それを正確に読ませるために「振り仮名」を付けたのではなく、振りがなの形をとっている「本文」が先にあって、それに対応する「漢訳」的な表記が「地の文」として選ばれているのではないか。
福沢はこの文章で、「かほかたち」というところを、地の文で「容貌」と書き、それに「かほかたち」という振りがなを振ってもよかった。「ふし」というところを地の文で「五倍子」と書き、それに「ふし」と振ってもよかった。神仏、片付を、地の文で、「かみほとけ」、「かたづき」と表記することもできた。そのあたりについては、福沢はまったくこだわっていなかったと見る。
つまり、この時期の福沢の文章においては(この時期の福沢の文章に限定する必要はないと思うが、一応そう言っておく)、振りがなの部分こそが本文なのであり、したがって振りがなを省いた「原文」は、とうてい「原文」たりえない、振りがなと地の文が組み合わさって、はじめて「原文」と呼ぶに足るのである。
明日のコラムでは、以上のようなことを意識しながら、再度、『かたわ娘』の「原文」を紹介しみようと思う。
今日の名言 2012・6・11
◎箸が転んでも報告を要す
警察教材研究会編『説諭の栞』(一九四二)にある言葉で、特高警察官の心得を示しているという。戦中の「特別高等警察」、いわゆる「特高」〈トッコウ〉は、民衆の動向を細かく監視し、不平不満の摘発に努めていた。この「箸が転んでも報告を要す」という言葉は、荻野富士夫氏の新著『特高警察』の中で紹介されている。岩波新書『特高警察』は、先月22日発売。