「近江八幡の中村屋で火災」の報に、思わず声を上げてしまった。実は火災があったちょうど3カ月前の2010年9月10日、その老舗旅館に宿泊したばかりだったのだ。新聞記事によれば、近江八幡市武佐町にある築約200年の老舗旅館「中村屋」は12月10日の早朝、漏電が原因と思われる火災で全焼した。幸いにもけが人はなかったという。

築後約200年の老舗旅館「中村屋」の外観(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)
築後約200年の老舗旅館「中村屋」の外観(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)

 滋賀県で唯一現存する、旧中山道沿いに軒を連ねた旅籠(はたご)だったそうだ。建てられたのは江戸時代。「宿泊したお侍がむやみに刀を振り回すことができないように、居間の天井をあえて低くした」という女将の話に歴史を感じた。

橋状の廊下が架かっている中庭(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)
橋状の廊下が架かっている中庭(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)

 女将の記憶では、2階に続く階段は1972年ごろまで、縄を使って上げたり下ろしたりできたそうだ。江戸時代は要人が宿泊した際、就寝後に階段を引き上げておいた。仮に刺客などが奇襲をかけても、階段が引き上げられているのですぐに2階には上がれない。宿泊者が逃げ出す時間を稼ぐための工夫だった。

館内の壁に掛けられていたガラス絵(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)
館内の壁に掛けられていたガラス絵(写真:日経アーキテクチュア、2010年9月11日撮影)

 宿のそこかしこに歴史が刻み込まれていた。初めて「ガラス絵」なるものも見た。掲載した写真は、宿泊時に撮影したものだ。江戸時代の浮世絵や、明治時代に購入した英国製の時計が壁に掛けられていた。ロビーのテーブルには若いころの女優、若尾文子さんを描いたうちわが置かれていた。聞けば55年ごろに製作したものだという。

 出張時には、できるだけ古い木造旅館に宿泊するようにしている。日本家屋の細かい造作の陰影の深さ、木の建具が持つ独特の味わいなどを堪能したいからだ。中村屋の全焼は残念でならないが、そこで感じ、目にした「歴史」は、いつまでも伝えていきたいと思う。