新聞記者は「肉体労働者」か?非合理的な取材競争で体力すり減らす、新聞休刊日が象徴する「横並び体質」

「日本初のノーベル経済学賞候補」ともいわれた青木昌彦・米スタンフォード大学名誉教授。2006年の暮れ、日本経済新聞の「私の履歴書」執筆のことで担当の私にあいさつしようと思い、同紙編集局に電話を入れた。

「牧野は休暇中で、3週間はオーストラリアから戻って来ません。勤続20年以上の社員に与えられる永年勤続休暇を取得中だからです。こんなに長期の休みを取得する社員は前代未聞です」

 こう言われた青木教授は「3週間も休むなんて不謹慎な記者」と反応したのだろうか? 実際は正反対だった。「牧野さんはそんな人なのか。これなら一緒に仕事をしても安心」と思った。

 以上は、「私の履歴書」を連載中の2007年10月、青木教授が私の「励ます会」で披露したエピソードだ。当時、日経新聞を退社して数カ月たっていた私のために、取材先や同僚が「励ます会」を開いてくれた。青木教授は「履歴書」連載中で多忙を極めていたにもかかわらず、短いスピーチをしてくれたのだ。

休暇中に呼び戻すのが当たり前

「私の履歴書」を基に書いた自伝『人生越境ゲーム』には、学者でありながらも波瀾万丈の人生を送ってきた青木教授の生き様がカラフルに描かれている。学生運動家として逮捕されたり、カリフォルニアのカウンターカルチャーに熱を上げたりするなど、かつて「エコノミックアニマル」とも呼ばれた滅私奉公タイプのサラリーマンとは似ても似つかない。だから「前代未聞」と聞いて安心したのだろうか。

 永年勤続休暇の権利が発生したのは2003年。年次有給休暇とは別に20日の特別休暇を取得できる。すでに権利発生から数年がたっていたことから、急がなければ権利が失効しかねなかった。そこで2006年暮れからの年末・年始を挟んで3週間の休みを取り、家族と共にオーストラリアで過ごした。新聞記者生活23年間で最長の休暇だった。

 確かに「前代未聞」と言ってもおかしくはなかった。というのも、私が知る限り、数十人に上る同期入社記者のうち実際に20年目の永年勤続休暇を取得したのは私だけだったからだ。1人の例外を除いて同期入社記者全員が永年勤続休暇を消化しないままで権利を放棄しようとしていたのだ。

 実は、厳密には私自身も権利をきちんと行使したわけではなかった。日経新聞では毎年20日の年次有給休暇をもらい、未消化分については次の年に繰り越せる制度になっていた。実際には忙しくて年次有給休暇をほとんど取得できないから、大量の年次有給休暇をため込む状況が続いていた。

 3週間のオーストラリア旅行のうちほぼ1週間は年末・年始の休みであり、有給休暇を取得しなくても自動的に休める。ということは、実際に休んだのは2週間であり、週末の土日を除けば10日にすぎない。言い換えれば、私は年次有給休暇を10日取得したにすぎず、永年勤続休暇を実質的に1日も使わなかったわけだ。これで「前代未聞」になったのだ。

 ちなみに、日経新聞には10年ごとに永続勤続休暇がある。社員をリフレッシュさせるのが狙いだ。私は10年目の永年勤続休暇も取得している。ただし、「株価が乱高下しているというのに市場担当記者が休暇中とは何事か」と言われ、休暇中にもかかわらず職場へ呼び戻された。

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