1925年、中国福建省生まれ。9歳のとき父を追って来日し、京都府や岡山県で暮らした。日中戦争中には子供たちに石を投げられ、竹やりを突く訓練ではわら人形の間に立たされ的になった。特高警察に捕まり拷問を受けたことも。
長男の伯正さん(41)は「日本人が悪いんじゃない。国家の争いに国民を巻き込む戦争が悪い。だから戦争だけは駄目だ」と話していたことを覚えている。
終戦後、神戸市で繊維商や不動産業を始め、収益を同文学校や福建省の学校に惜しみなく寄付。総額は数億円に上るとみられる。「不遇な少年時代を送っただけに、何よりも大事にしたのが教育だった」と同文学校校長の愛新翼さん(68)。
交流がなかった朝鮮学校や欧米系の学校をまとめ、「兵庫県外国人学校協議会」も設立。日中友好や多民族共生社会の理想を持ち続け、常に「橋渡し」の役割を担った。
張りのある声で「乾杯」と叫び、グラスを持ち上げ場を和ませた、と多くの人が懐かしむ。50年の付き合いという神戸華僑総会理事の石嘉成さん(75)は「華僑の大きな星が消え去った」と涙ぐんだ。