テクノロジーって何? |
さて、ひとつテクノロジーの話を。
といっても、戦略で重要になってくるテクノロジーの話ではなくて、そもそも「テクノロジー」とはどういうことかという、ある意味で哲学的な話を。
すでに最近のエントリーでも書きましたが、テクノロジーというのは「戦略の階層」の最下層に位置する概念になります。
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※ちなみに最近warterlooさんに精力的に書き込んでいただいている「戦略の階層」の上と下のレベルへの拡大についてですが、これについてはまた詳しく書きます。
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あまり日本では研究されておりませんが、欧米では文化研究の一環という形で「テクノロジーの哲学」というものが真面目に研究されております。
戦略学の分野でこの辺に造詣が深いのが私がお世話になっているロンドン大学のC教授でして、最近の著作の中でも戦争の倫理的な問題にからめてテクノロジーの文化的な面を哲学的に分析したりしております。
私もC教授に触発された形で「テクノロジーとは何か」ということを、特に最近の米軍による無人機(UAVs)などの活用のされかたに刺激されて文献をちょくちょく読むようになったのですが、面白いのはこのような分野では「テクノロジー」という定義そのものが問題化しているわけです。
これは地政学研究において「地政学とは何か?」という問題が議論されたり、「戦略とは何か?」ということがテーマになるのと一緒です。
で、とりあえず「テクノロジー」についてどのような「定義」がでてきているのかというと、私が知る限りでは以下のようにほぼ三つのものがあるような。
1、テクノロジーを「ツール」や「マシン」のような「道具」(tools)として見るもの。
これは純粋に「人間が使うもの」という意味であり、この定義を想定している人はテクノロジーを中立的(ニュートラル)に見る傾向があるような。これだとテクノロジーを使う人間と道具が切り離されているという捉え方になります。
ひとつ問題なのは、この考え方だと(選挙の集票をする政治組織として)「マシン」のような、「道具を使わない系のテクノロジー」を説明できなくなってしまうことでしょうか。これはテクノロジーを単純に「ハードウェア」として見るからです
2、テクノロジーをルール(rules)として見るもの。
こちらはテクノロジーを「ソフトウェア」としてとらえます。このような立場の人たちは、テクノロジーには何かの目的を果たすための「手段と目的の関係」をもつ決まり事としての部分に注目するわけです。
具体的にはゼロ戦というのは単純にいえば単なるハードウェアなわけですが、ここには当時の日本人の汗と涙の知識という「ソフトウェア」が無ければ存在しえないわけえです。
つまり一番重要なのは、「ゼロ戦」という「結果」よりも、それを生み出している「知識」そのもののほうになるのです。
こうなると、いわゆる「テクニック」というのもこれに近くなるわけで、私が紹介している「戦略の階層」でも、テクノロジーというものをテクニックと同列において、ソフトとハードの両方があることを示しているわけです。
3、テクノロジーを「システム」(system)として見るもの。
ハードとソフトの両方を持っていても、それを人間が活用していなければ意味がありません。たとえば2000年前のギリシャ人たちに今のPCを与えても、それを活用するような社会ではないわけですから彼らにとってPCは全く無意味なわけです。
つまりここではハードとソフトを兼ね備えた「PC」という存在が、「現代社会」というコンテクストに当てはめられて初めて効果を発揮するような「システム」である、という風にとらえられわけです。
いいかえれば、テクノロジーは「組織的に、社会的に、人に使われて、維持されて、修理される」という機能があって初めてテクノロジーたりえる、ということですな。
この考え方だと、テクノロジーはそれ自体で生命をもっていて、人間個人のコントロールは及ばないものであるという想定がでてきやすくなります。
つまり人間は、1のように「ただ単にテクノロジーを使う」という立場ではなくて、テクノロジーというシステムの中に含まれた存在である、ということです。
以上、この三つの定義をまとめると、
1、ハード派
2、ソフト派
3、システム派
ということになるでしょうか。
比較してみると、やはり「システム派」が「ハード派」と「ソフト派」の両方を含んでいるという意味で一番包括的、ということがいえるかも知れません。
で、現在もっとも盛んな研究のされかたはもちろん「システム派」なのですが、欧米、とくにアメリカでは、いまだに1の「ハード派」の考えが庶民の間では一般的です。
まあ映画「ターミネーター」の世界では「システム派」の考え方が出てきているわけですが(苦笑