2014年3月31日、NHK連続テレビ小説「花子とアン」がスタートした。
1話を観て、その斬新さにひっくりこけたね。

すごいぞ、これ!
『アンのゆりかご 村岡花子の生涯』を原案に、ルーシー・モード・モンゴメリ の『赤毛のアン』を翻訳した村岡花子を描くということで期待して観たら。
アンじゃないか! 
アンそのものじゃないか!
村岡花子の生涯とみせかけて、日本を舞台に置き換えた『赤毛のアン』をやってるじゃねーか。
な、なんたる大胆不敵。

タイトル前。
「曲がり角を曲がったさきになにがあるのかは、わからないの。でも、それはきっと……」と花子を演じる吉高由里子のナレーション。

そこに空襲警報のサイレン!
「きっといちばんよいものにちがいないと思うの」
窓ガラスが割れる。炎が入ってくる。
訳している原稿に火の塊が落ち、燃え上がる。
わっと火を消し、花子は、原書と辞書を抱える。
「何?」
「命より大事なもの」
『赤毛のアン』の読者なら、この最初数分でグッとくる。
っていうか、吉高由里子のナレーションの言葉は最終章でアンが決意を語るシーンの台詞だ。

つまり、ほぼ訳し終えていたタイミングなのだ。
「なら、原書も大事だけど訳した原稿も持ってってよ!」と心のなかで大きなツッコミを入れるんだが、持って行ってない感じなんだよなー。
いやいやいや、火消したんだから、持ってって!

この後、タイトルをはさんで、こども時代へ。
働いている間、鳥になって空高く飛ぶ想像をして「はなは小さいころから夢見るチカラを持っていました」というナレーション。
想像することが大好きなアンと同じだ。
“朝はどんな朝でもよかないこと? その日にどんなことが起こるかわからないんですものね。
想像の余地があるからいいわ。”
(第四章 「緑の切妻屋根」の朝)
ここから明治の山梨版『赤毛のアン』が繰り広げられる。

いじめっこにいじめられ、はなと呼ばれて、こう叫ぶのだ。
「はなじゃねぇ、オラのことは花子と呼んでくりょう!」
きましたーーー!
これは、アンが、マリラに「何という名前なの?」と問われて答えるシーンだ。
「アンという名を呼ぶんでしたら、eのついたつづりのアンで呼んでください」(第三章 マリラ・クスバートの驚き)
そもそも、村岡花子の本名は、「安中はな(あんなか はな)」だから、「はな」って呼ぶいじめっこが正解だ。

8:08、お父さんと帰る道は、なぜかヒラヒラと白い羽根を舞わせていて、映像的にもカナダ風。

アンが、“ほかの人があそこを『並木道』と呼ぶのはかまわないけれど、あたしはこれから『歓喜の小路』と呼ぶわ”(第二章 マシュウ・クスバートの驚き)と言った歓喜の小路だろう。

小学校に行くことになる花子。
阿母尋常小学校って変わった名前の学校だなって思ったら、これアヴォンリーのアヴォですな。赤毛のアンが住んでる村の名のもじりだ。

8:14、教室、授業中。
背負っている赤ん坊を泣かしたのを朝市くんだと思った花子が「この卑怯もん!」と言って、石盤で殴るシーン。
これは、アンの中でも有名なシーン。
『赤毛のアン』から引用してみよう。
“ギルバートは通路ごしに手をのばしてアンの長い赤い髪の毛のはしをとらえ、腕をのばしたまま、低い声ではっきり聞こえるように「にんじん! にんじん!」と言った。
すると効果てきめん、アンは彼のほうを見た。
見ただけでなく、とびあがった。輝かしい空想は無残にくずれおち、怒りにもえた目でギルバートをにらみつけたが、たちまちその目にはくやし涙があふれてきた。

「卑怯な、いやな奴! よくもそんなまねをしたわね!」とアンは、激しくなじった。
そして――バシンと自分の石盤をギルバートの頭にうちおろして砕いてしまった――頭ではない、石盤を真っ二つにしたのである。”
(第十五章 教室異変)

1話で、『赤毛のアン』の名シーンがどんどん登場しちゃうのである。
今後、どうなるのか。
華族の娘(仲間由紀恵が演じるそうです!)と友達になるそうだから、彼女がダイアナかな。酔っ払わせちゃって会えなくなったりするのかな。
持ち前の想像力を使いすぎて夜の森が怖くて外出できなくなっちゃうシーンと、肝試しで高い場所を歩いて落ちちゃうシーンと、物語クラブは、今後出てくると予想。
でも、あんまりアンをやっちゃうと、花子が大人になって読む『赤毛のアン』が、自分の人生を描いた予言の書になっちゃってP.K.ディックばりの現実と虚構が入り乱れるSF展開になるんで(『マイノリティ・リポート』収録の「水蜘蛛計画」か!)、あんまりやらないのかもしません。

ともかく、今後の展開にときめきいっぱい興味津々である。
(ギルバートファンは、あのくりくり坊主がギルバートか!と憤慨したそうだけど、まあ、まあ、どうどう)(米光一成)