稲葉振一郎『政治の理論』

 社会学者でありながら、『経済学という教養』、『不平等との闘い』(文春新書)などで経済学にも越境して仕事をしてきた著者が、政治の理論についての入門書をということで企画されたのがこの本。
 当初は、中公新書の予定だったそうですが、新書としてはまとまりきらず、中公叢書からの発売となったようです。

 
 『経済学という教養』は経済学の入門書としても機能する本ですが、この『政治の理論』は、「政治の理論」の入門書になるとしても(それも厳しいと思いますが…)、政治学の入門書にはならない本です。
 20世紀を代表する政治哲学者、H・アレントの奇妙な「政治」と現代の「政治」の差異をフーコーを手がかりに分析することで、「政治」の概念を再検討し、「リベラルな共和主義」の可能性を探るという内容で、かなり癖のある内容になっています(というわけで、少なくとも入門書でもいいのでアレントについて知っておく必要がありますし、できればアレントの『革命について』か『人間の条件』といった著作を読んであると、よりこの本の議論を味わうことが出来ると思います)。


 先日、トランプ大統領の誕生後にアメリカでアレントの『全体主義の起源』が売れたというニュースが流れましたが、一般的にアレントはこの『全体主義の起源』や『イェルサレムアイヒマン』といった著作で知られていると思います。
 アレントはナチズムとソ連社会主義をともに「全体主義」というキーワードで批判したことから、「リベラル・デモクラシーの擁護者」のように思えるかもしれませんが、彼女の考える「政治」は通常の「政治」についての理解とはかなり異なっています。


 アレント古代ギリシャのポリスの民主政を「政治」についての参照点だとし、貧困などをの「社会問題」を「政治」において扱うことを拒否しました。「政治」というのは、自らが拠って立つ財産を持つ者が対等な立場で集まり、討議する場というがアレントの考えなのです。
 しかし、現代の政治において要請されるのは、まさに「社会問題」の解決です。「社会問題」の解決を放棄した「政治」には意味がないように思えます。
 著者は、このアレントの特異な「政治」観をフーコーを使って読み解こうとします。


 フーコーは<統治>という概念を提示しましたが、これはアレントの政治とは対照的な概念です。
 フーコーの<統治>は「家政」に近い概念で、アレントが私的領域として「政治」の場から排除したものでした。この<統治>は絶対主義の時代に国家経営の手段として発達しましたが、著者は「我々現代の一般庶民にとっては、このフーコー的な意味での<統治>の概念の方が、正統的な意味での「政治」のそれよりもよほど近しいものであると言えないだろうか?」(76p)と問いかけます。
 この<統治>は現代における「行政」であり、現代の「政治」はまさに「行政」による「社会問題」の解決と考えられるからです。


 『統治二論』で知られるロックは、「教育」を家庭で行われる「私事」だと考えましたが、貧民に対する職業訓練に関しては、「ワーキングスクール」という公共政策を提唱していました。このワーキングスクールには「教育」という言葉は使われず、それはある種の権力作用として捉えられています(78-81p)。
 つまり、ロックはアレント的な政治観を持ちつつも、どこかでフーコー的な<統治>の必要性を理解していたともとれるのです。
 17・18世紀までは、貧困対策は私的な領域や教会によって対処され、「政治」に世界には安定した財産を持つ者だけが立っていました。しかし、17・18世紀になると貧困は「社会問題」となり、「政治」の世界に入り込んできます。
 また、今まで取引の対象とはならなかった「元物」(領地など)も取引の対象となり、「市民」の立場も流動化していくのです。


 とりあえず、ここまででアレントのいう「政治」からフーコー的な<統治>の流れが押さえられましたが、ここから著者はもう一度、アレントの「政治」を再検討しようとします。
 アレントの議論を読んでいくと、市場でのフェイス・トゥ・フェイスの取引もまた「政治」だと捉えることができますし、法廷での対決もまた「政治」だと言えるかもしれません。あまりに古典的で現代には通用しないと考えられる、アレントの「政治」概念ですが、取引や法廷、あるいは株主総会などにそれは残っているともいえます。
 

 しかし、現代の市場は匿名化が進んでおり、取引に「政治」を感じさせる場面は少なくなっています。さすがにコンビニでものを買うときに「政治」を感じる人はいないでしょう。
 また著者は、経済的な取引は、余剰生産物の交換という側面だけではなく、債権債務関係からも分析することができるといいます。そして、この債権債務関係は上下関係や権力作用を呼び起こします。


 こうしたことを踏まえて著者が提唱するのが「リベラルな共和主義」になります。
 ここでいう「共和主義」は「有産者≒市民の零落を防ぎつつ、なお開かれた市場における取引秩序を維持し、活発化させる」というもので、そこにつく「リベラル」という言葉は平等を志向するもので、「リベラルな共和主義」は、「「すべての人を有産者=市民にする」ことを志向するものに他ならない」といいます(160-161p)。
 ここで著者が「共和主義」というやや古いイメージのある言葉を持ち出すのは、市場へのアクセスを保障するだけのデモクラシーでは、個人は独立した立場で市場に参加することはできないと考えるからです。


 個人間の平等というと社会主義も一つの解決方法として思い浮かびますが、ご存知のように社会主義はうまくいきませんでした。著者は、社会主義の失敗は、「市場には意味がある」ではなく「所有には意味がある」ということを明らかにしたといいます(172p)。
 しかし、多くの労働者(雇人)はとりたてて財産を所有していません。ここから雇用関係は非対称な取引になりやすく、雇用主が権力をもちやすくなります。これに対して、経済学では取引の透明化によってこの問題を解決しようとする向きが強いですが、著者は「各主体の「政治」的交渉力の底上げ」、つまりすべての市民を「有産者にするしかない」というのです(212p)。


 では、どうやってすべての市民を有産者にするのか?
 この本ではそれに対する答えは明確にされているとは言い難いです。人的資本への注目とそれを育てる教育、または組合などによる助け合い(水平的分配)などがあげられていますが、このあと、本書はリバタリアンなどが主張する「リベラルな独裁」の可能性を、アセモグル、ジェイムズ・ロビンソン、サイモン・ジョンソンらの議論によって否定するという議論にスライドしていくので、すっきりとした答えは提示されていません。
 アトキンソン『21世紀の不平等』では、「成人時点で全員に資本給付(最低限相続)を支払うべきである」というアイディアが出ていますが、著者がこの本で考える「財産」というのは現金給付とはまた違ったものでしょうから、この問への答えはなかなか難しいものでしょう。


 以上が自分の独断で乱暴に要約したこの本の内容ですが、この本はこれ以外にも自由意志だとか産業社会論だとか宗教だとかさまざまな論点がとり上げられており、次々と湧き出すそういった議論を追っていく楽しみというのもあります(ただ、こういった部分があるから新書にはならなかったと言えるかも。新書だったら自由意志を論じた第4章とかはばっさりカットになったでしょう)。
 また、アレントフーコーやロック、あるいはハーバーマスといった思想家の「読み直し」としても面白く読めると思います。
 最初にも述べたように、この本は政治学への入門書としては機能しないでしょうし、結論部分に関してもややはぐらかされている感があるのですが、過去に「政治理論」や「社会理論」、あるいは「政治哲学」というなで積み重ねられてきた議論に面白い補助線を引いてくれる本になっています。


政治の理論 (中公叢書)
稲葉 振一郎
4120049353