BRUTUS (ブルータス) 2011年 3/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 3/15号 [雑誌]

BRUTUS (ブルータス) 2011年 3/15号 [雑誌]


大変すばらしい特集でした。読むべき本のリストが大量に増えてしまいましたが、旅について考えるなんてことは一生を通して行うほうが自然だろうし、人生こそ旅そのものだし。旅について考えると言うことは人生について考えることなのでしょう。


もうちょっと真剣に旅をしてくればよかった。つかの間の楽しさを最小限の手間で実現する方向が多かったような気がする。それはそれで大変な価値がありましたけどね。今からでも遅くない、いわゆるトラディショナルな旅行の楽しみ方について、もう少し考えてみよう。


一番印象に残ったのは、「ホテル・エベレスト・ビュー」を目指す旅。エベレストに登るってのは色んな意味でコストがかかりすぎるけど、近くに見に行くだけだって相当なインパクトのはず。だって、新幹線のるたびに、あるいは街中から遠目に富士山が見えるだけで喜んでしまいますからね。これは必ずやろう。


あと、旅行本っていうのは本当に大量にあるんですね。ほとんどが未読なので、これから超楽しみ。今まで何してたんだろうというのは置いといて、とりあえずAmazonでまとめて発注しよう。


メモ:

  • P.22 遠くへ行き過ぎた者だけが、自分がどこまで行けるのかを知ることができる。by T.S.エリオット"On Poetry and Poets"


  • P.31 「東方への旅」を締めくくるのはアテネだ。が、あまりに思い入れが強かったためか、彼は一番の目的であるパルテノン神殿にすぐに行くことをためらっている。


  • P.49 あらゆるものをしっかりと見るのは間違いだと私は真剣に思っている。それは消耗でしかない。ものごとは選ばれるべきなのだ。ほんの少しだけ摂取され、あとは残される。byチャールズ・ブコウスキー


BRUTUS (ブルータス) 2011年 3/15号 [雑誌]

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)


自分の場合はとくにTwitterですが、やはりソーシャルメディア的なものに触れるようになって情報の取り方は確かに変わった「ような気がします」。


ソーシャルメディアの登場を境に、自分にとって必要な情報を取得するための方法がどのように変わったか、その背景や今後の方向性などに関して記述されている本です。


まさに「ような気がします」程度の感覚的なところを、時間軸と空間軸の間口を最大限に拡げて、かつ非常に分かりやすくまとめてくれようとした本だろうというのは分かったんですが、ちょとと拡散しすぎ?


あふれでる知性が止まらない状態になってしまったのか、各要素は面白いんだけど全体的な論点のまとまりとしては微妙な仕上がりかと。まぁ、マルチセクショナルなキュレーターの宿命かな。


でも各要素については、本当に興味深い話が盛りだくさん。ライフログのところまで議論が進むあたりは素晴らしいなと。


帯の「情報の常識はすべて変わった!」ってのは煽りすぎなんだけど、自分でもキャッチアップしきれない状態で、こういう情報の取り方をどうやって身の回りの「まだ気づいてない」方々に伝えることが出来るか。。。なんかいつもこの悩みでとまっちゃう気がする。


メモ:

  • P.58 「大きなビジネスにならない」と広告業界人やマスメディア業界人が不満を持つのは勝手ですが、もう大きなビジネスなど存在しないのが、二十一世紀の情報流通の真実なのです。もしそこに大きなビジネスを求めようとすれば、アップルのiTunesやグーグルの検索エンジン、あるいはSNSフェイスブックやツイッターのように、情報流通のプラットフォームを目指すしかありません。


  • P.126 社会との関係は接続と承認が中心となり、その接続・承認を補強するための手段として、いまやモノは変われているということなのです。この消費社会の大きな地殻変動を理解しなければ、これからの広告、これからの情報流通はもはや語れません。
    • んー、確かにそうだが程度の差にばらつきがありすぎてひとくくりには出来ない気がするけどなぁ。


  • P.140 このエコシステムをうまく駆動させるために、フォースクエアはいくつかの仕掛けを巧みにに導入しています。

1.みずからはモジュールに徹し、巨大プラットフォームに依拠したこと
2.「場所」と「情報」の交差点をうまく設計したこと
3.その交差点にユーザーが接続するために「チェックイン」という新たな手法を持ち込んだこと

  • P.152 これまでバーチャルとリアルの境界線は明確に存在していて「バーチャルかリアルか」という対立軸の中で考えられていました。ところがフォースクエアのような空間と時間とウェブと人間関係を同時に結びつけてしまうような新たなサービスが登場してきたことで、このバーチャルとリアルの境界線はどんどんあいまいになってきています


  • P.160 欧米の伝統的な文化がホストとゲストの関係性を固定しているとされているのに対し、日本古来の主客一体ではホストとゲストの関係はつねに対等で、共鳴によってお互いが協力していく。客の側も「おれは客で御座い」と威張るのではなく、あるじが何を考え、どのような趣向を見せようとしているのかを言葉にせずに察して、それに共鳴してふるまうような「客ぶり」が求められる


  • P.218 コンテンツとコンテキスト。その両方の要素があってこそ、私たちはコンテンツを更に深く豊かに愛することができる。そしてコンテンツとコンテキストは相互補完的な関係であって、どちらが欠けてもいけない。コンテキストは決して「コンテンツのおまけ」程度の副次的な存在ではないと言うことなのです。


  • P.233 「うまい歌手の歌よりも、ひとりの娘が会談を磨きながらがなりたてる歌のほうが、私の心に響いてくる。それぞれ好みは違う。私は少ないものを好む。同じように、萌芽の状態を、不細工さを、そして未完成さを、雑多さを。私は殻の中のダイヤモンドの原石を好む。ふの不純物とともに。


  • P.238 そうやって彼は、萌え系の表現方法を採用しながら、でも古い日本画の伝統も汲み、しかしそこにあえてテクニックは誇示しないという仕掛けを盛り込み、そしてそれによっていまの日本の若者の精神状態をすくい上げるという離れ業をやってのけました。それが彼の「スーパーフラット」というコンセプトです。


  • P.242 一時情報を発信することよりも、その情報が持つ意味、その情報が持つ可能性、その情報が持つ、あなただけにとっての価値」、そういうコンテキストを付与できる存在のほうが重要性を増してきているということなのです。情報爆発が進み、膨大な情報が私たちの周りをアンビバレントに取り囲むようになってきている中で、情報そのものと同じぐらいに、そこから情報をフィルタリングするキュレーションの価値が高まっている。中略。これは「情報」というものの価値を180度転回させる画期的なパラダイム転換なのです。
    • これはライフログデータの活用でも使えそうな言い回し。


  • P.252 私たちの世界の膨大な情報のノイズの海から、それぞれの小さなビオトープに適した情報は、無数のキュレーター達によってフィルタリングされていきます。それらの情報にはコンテキストが付与され、そのコンテキストがキュレーターによって人それぞれであるが故に「何が有用な情報なのか」というセマンティックボーダーはゆらいでいきます。その「ゆらぎ」こそが、セレンディピティの源泉となる。


  • P.261 ソーシャルメディアでの情報流通の繋がりは、つねに「一回性」というただ一度の出会いの中にある。一期一会、なのです。


  • P.278 ジスモンチを聴く人たちは日本国内では小さな小さなビオトープに点在してひっそりと生息している。微細なビオトープです。でもグローバルに目を転じれば、ジスモンチを聴く人たちは数万人、数十万人、あるいは数百万人にのぼる。世界中に点在しているジスモンチのビオトープは、同じ「ジスモンチを聴く人たち」として共鳴空間を形成し、水平につながっていくということなのです。


  • P.298 いずれも、その土地で旬にとれた食材は、その時間と空間の中でしか生まれない唯一のものであって、それを消費する側の人たちがきちんと評価してこそ、職と人の良い関係が成り立つという考え方。つまりそこに「一回性」が存在するわけです。


キュレーションの時代 「つながり」の情報革命が始まる (ちくま新書)

  • 自分にとってのキュレーターリストを作って、それについて情報交換してみる
  • 自分がキュレーションできうる分野を考えて、試しにちょっとやってみる
  • 身の回りの小さなビオトープについて、それを拡げる感じではなく、他所のそれと繋げる想像をしてみる
  • ゆらぎを求めて他流試合をいろいろやってみる

2011年04月02日のできごと