レスター伯の限界

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あえて新本格ミステリの歴史的文脈から考察する ―苦悩する探偵物語としての『ミルキィホームズ』のすすめ―

 エラリー・クイーンの時代から探偵といえば苦悩する生き物です。

 そんな苦悩がミルキィホームズにも引き継がれていると考えるのは、

 考えすぎでしょうか?

 確かにミルキィはギャグアニメだし、

 ニコニコで何も考えずにみても全然面白い。

 別に深く考察する必要はないだろうし、

 論考するとしても探偵物語の文脈とは違う所でするべきかもしれない。

 ただ、今回はあえて新本格ミステリのファンとして、

 苦悩する探偵の歴史というコンテクストの中で、

 ミルキィホームズを考察してみたいとおもいます。

 いつもと違って長文の論文調になっておりますのであしからず。
 

探偵オペラミルキィホームズ(限定版) - PSP

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 *初めにお断りしておきますが、古典本格ミステリまで話を広げてしまうと長さがいくらあっても足りないので、新本格以降に絞って話を組み立てております。

1.苦悩する探偵と本格ミステリの構造転換

 新本格はその華々しい登場の裏で、自らの立ち位置に悩みを抱く探偵というテーマを抱え込んでいました。その代表例が、法月綸太郎による作者の同名の探偵・法月綸太郎シリーズです。法月は『頼子のために』において後期クイーン的問題に連なる探偵の抱える矛盾した立ち位置を意識的に描きます。*1


 その矛盾とは、客観的な真実を明らかにすることで事件を解決する役割を担うはずの探偵も、自らの推理の客観性を証明することが出来ない上に、一度事件に携わることで神のように客観的な立場から事件を解決することはできず、必然的に当事者の一人として事件に影響を与えてしまうという問題です*2。これは本格ミステリーを書く上で避けて通る事が出来ない問題であり、綾辻行人が『どんどん橋、落ちた』で書いたように探偵は袋小路に追い込まれ、そのアイデンティティが根本から揺るがされかねなかったのです。
 

頼子のために (講談社文庫)

頼子のために (講談社文庫)

どんどん橋、落ちた (講談社文庫)

どんどん橋、落ちた (講談社文庫)

 

 それに対して、90年代中盤に登場した京極夏彦森博嗣ら新世代の新本格の作家たちは、ミステリの構造に根本的な構造転換をもたらしました。彼らは現象そのものが謎なのではなく*3その現象を不思議に思う人の心・認識こそが謎なのであるとそれまで以上に明示的に描いたのです。*4つまり、京極堂のキメ台詞「この世には、不思議な事など何もないのだよ。」との言葉通り、それまで探偵が明らかにしてきた事件の真相自体に「ミステリ=謎」が存在しているのではなく、情報の欠如によって真相が分からない「認識がミステリ」だという構造転換がここに起こるわけです。


 こうしたミステリの構造転換が起こることで、物語における探偵の役割も変化せざるをえませんでした。一番分かりやすいのが京極堂シリーズにおける探偵・榎木津で、彼は相手の過去(記憶)が見えるという特殊能力によって事件の真相にはあっさりと辿り着く一方で、事件を解決するという作業には殆ど興味を持たない。それに対して事件を解決するのは探偵ではなく、「憑き物落とし」の京極堂であり、彼は事件の真相を説明はしますが、それよりも事件によって歪んでしまった「人の認識=呪い」から「憑き物を落とす」ことで、世界のあり方を正常に戻すことを主な役割としているキャラクターです*5。また、森博嗣の小説における「探偵役」の犀川先生や紅子さんも「動機(WHY)」には関心を示さない、「方法(HOW)」には関心を示し解明はするが、事件解決自体にはそこまで関心を持たないキャラクターであり、それまでの探偵とは明らかに一線を画しているといえます。


 最も素朴な探偵観に基づけば、真相を解明し世界を正常化するのは探偵の役割のはずですが、法月の提起した問題と京極・森らによる構造転換以降においては、探偵は主観性と物語という枠の限界の中で真相に限りなく近い何かを提示することはできるだけの立場であり、また世界を正常化する(したように見せかける)事が可能なのは探偵ではなく京極堂のように別の能力・役割を与えられたキャラクターに移されていきます。つまり、この段階に至って本格ミステリ小説における探偵は、事実関係を明らかにするとか、知力や特殊能力に基づいて犯人を当てることができるという役割を持つものの、他の登場人物と同じ地平に立つ一キャラクターとなり、特権的な立ち位置を喪失してしまったのです。*6

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

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すべてがFになる (講談社文庫)

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2.ミステリの拡散とミルキィホームズ登場の文脈

 90年代中盤における本格ミステリの構造転換以降、ミステリは様々な形で拡散していったといえます。それはミステリという枠に縛られることのない現象であり、むしろライトノベルや純小説の分野にミステリの影響を受けた作品が多くみられるようにってきたことも意味します。


 例えば、森博嗣を輩出した講談社メフィスト賞は、西尾維新の登場によって一気にライトノベルとの垣根が取り払われてしまいました。探偵が特権性を喪失してしまうということは、探偵も一キャラクターとして描かれるということにつながります。実際に、京極も森も(もっといえば西澤保彦も)非常にキャラクター小説の色合いが強いミステリを書いてきたわけで、その影響を色濃く受けた西尾世代の作家がキャラクター小説としての意味合いが強いライトノベルに接近していったのは納得がいく結果といえるのではないでしょうか。また、探偵が一つの能力になるという意味でも、西尾維新の小説は象徴的なのかもしれません。

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社文庫)

 *少し脱線しますが、いずみのさん(id:izumino)さんと話して以来、京極・森以降のミステリがキャラ小説化していったのはなぜかずっと考えていたのですが、今回の探偵論に照らし合わせてみると少し理由が分かってきた気がします。探偵による論理的な事件の解決を徹底して追求した新本格初期の作品群においては、探偵という特権的なキャラクターが推理をする上で、他の登場人物はどうしても一つ下のレベルと論理的な記号として機能せざるを得ないわけで、だからこそ「人が書けていない」という批判を受け続けた。

 それに対して構造転換以降は、探偵が特権を喪失し、他のキャラクターと同列に降りてくることで、他の登場人物の描写も論理的な記号から、より人間的な特徴が強調されたキャラクターになる余地が大きくなってきます。その上で、新本格初期とは違った方向に記号的なキャラクター性(それこそ萌え的なキャラ付け)が拡張されることライトノベル的な描写へと接近していった。そしてそこでは探偵の能力もかつての文脈からはある程度自由になり、一つのキャラクター性へと昇華されていったと考えられるのではないでしょうか?現段階ではまだまだ推論ですが、この問題に関しては今後もう少し詰めて考えてみたいと思います。


 一方で、ライトノベルや純文学的な作品においてもミステリのエッセンスを組むような作品が従来以上に増えてきたのも90年代中盤以降のような気がします。例えば高畑京一郎の作品群やブギーポップシリーズにおける伏線を多用し、最後に物語を収束させるプロットの立て方はミステリの影響を強く感じさせます。また『マリア様がみてる』の場合にも、バレンタインの時のカード探しのエピソードや『私の巣』における環と百のエピソードなどのように、随所に作者のパズル趣味が感じられる謎解き話が多いですし*7、また「レイニー止め」は、「祥子さまの事情を当ててみろ」という一種の「読者への挑戦状」的なノリと受け取ることもできるのではないでしょうか。

マリア様がみてる―レイニーブルー (コバルト文庫)

マリア様がみてる―レイニーブルー (コバルト文庫)


 また、ライトノベル作家である上遠野浩平が書いたミステリ小説における「戦地調停人」エドは、探偵というよりは「嘘と方便の力によって強引に和解を作り出す」という、どこかの「憑き物落とし」的な役割を担ったキャラとして描かれています。また、『涼宮ハルヒシリーズ』もミステリ的な影響を受けた作品だと思いますが、ハルヒの世界においても世界を再構築するのは探偵的な立ち位置にいるキョンではなく、特殊な能力を持つハルヒ長門の方に振り当てられています

殺竜事件 (講談社ノベルス)

殺竜事件 (講談社ノベルス)


 それから、伊坂幸太郎ミステリと純文学の境界で作品を書いている作家として重要です。*8彼は元々音楽的で映画的な文章を書くという点でもエンターテインメント色が強い作家ですが、一方で初期においては叙述トリックを多用するなど新本格ミステリの影響を受けている作家の一人でしょう。ここで重要なのは彼にとってのミステリ的な要素が、神の視点とまではいかないまでも、地上から数十センチ浮いている感覚を表現するために必要なものであり、それによって「正義」や「悪意」を寓話的に描くことに成功している点にあると思います。*9伊坂幸太郎はこうしたスタンスによって、法月や綾辻が行き詰った袋小路を軽やかに回避しつつ、正義の物語を書いているのです。叙述トリックに基づく正義や執念の物語という点では、新本格第二世代に当たる貫井徳郎の小説もあげることができるかもしれません。

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

アヒルと鴨のコインロッカー (創元推理文庫)

殺人症候群 (双葉文庫)

殺人症候群 (双葉文庫)


 一方で、米澤穂信のように青春ミステリによって探偵の全能感について描く新世代の作家も登場するなど、再び探偵小説としての本格ミステリの再構築も始まっています*10。いずれにせよ90年代中盤以降、ミステリはジャンルを超えては拡散しつつ、新たな探偵像を再構築、いや脱構築する過程をたどってきました。こうした文脈を考慮においた上で、いよいよ探偵物語としてのミルキィホームズの分析に入っていきたいと思います。

3.探偵小説としてのミルキィホームズの可能性

 アニメ第一話で描写されていたようにミルキィホームズはトイズという一種の「超能力」によって探偵としての特権的な立ち位置を保障されていました。しかし、その第一話において、彼女たちはその能力を喪失し、それと同時に学園における特権的な地位も喪失してしまうのですが、生徒会長アンリエットの好意で3カ月の猶予を与えられ、その間にトイズを取り戻すために奮闘するというのがアニメ版のストーリーの核であるといえます。

 ここで重要な事は、ミルキィホームズの探偵としての地位を保証するのが犯人を捕まえるためのトイズ(超能力)であること、そしてトイズを喪失したために探偵としての地位を失ったことです。この構図は京極・森による構造転換後の探偵の役割や法月による探偵の特権性の喪失と重なっている部分であり、その意味で推理シーンがほとんどギャグとしてしか描かれないにも関わらず、彼女たちが探偵という立場に強く縛られていると説明できるのではないでしょうか?

 
 もっといえば、第一期だと言われているゲーム版のテーマ「トイズによる探偵としての成長物語」なのだとしたら、探偵物語としてのミルキィホームズトイズという能力を核として、探偵としての「成長⇒喪失⇒復権」を描いた物語であると言え、したがってミルキィホームズ新本格以降のミステリの歴史をなぞっているといえるのではないかと主張したくなります*11


 さすがにこれだけで論理を展開するのは無理があるので、現在集まっている事実を基にさらに推論してみたいと思います。まず、興味深いのは「G4=警察」の位置づけ。ミステリ小説における探偵と警察の関係は常に良好なわけではなく、本作においても「ミルキィ=探偵」と「G4=警察」はライバルとして位置付けられているわけですが、両者の最大の違いとしてミルキィにはトイズがあるのに、G4がトイズを使う描写が今のところみられないという点です。もしかしたらG4にもトイズがあるのかもしれませんが、彼女たちにはトイズがなくとも警察の一員としての捜査・逮捕権というミルキィとは違った役割・特権が与えられているのです。この点も、キャラクター性が重視され、役割の分担が進んだ構造改革後のミステリの特徴を継承していると言えないでしょうか?

 
 また、ゲーム編のあらすじを見る限り、ミルキィホームズの師匠に当たる小林オペラは過去に探偵であることを止めた人間として描かれるようです。しかも、彼もトイズを喪失した人物として設定されているらしく、その意味ではミルキィホームズ二重の意味で「トイズの喪失と回復の物語」として描かれているのです。

 
 更に興味深いのが「怪盗」側もトイズを駆使するという点です。つまり「探偵」と「怪盗」は能力をもつという意味では同列であり、ともにトイズによって特権的な地位を与えられた存在です。そうなるとプリミティブな善悪を除いてしまえば、両者は実は交換可能ということになってしまうかもしれないのですが、アニメ版においては怪盗側のみトイズを自由に使えるため、現段階では両者の違いがどのように具現化するのかは不明です。ここまで書いてきた文脈に照らし合わせて考えるならば、「正義」と「悪」という観点も含めて、「探偵」と「怪盗」の違いはミルキィホームズを考える上では重要なポイントとなってくるような気がします。

 
 それを考えると、「怪盗アルセーヌ=生徒会長アンリエット」の位置づけが鍵を握りそうです。第一話前半で怪盗アルセーヌが使った「幻惑のトイズ」がきっかけとなってミルキィホームズは「トイズの力を失う=探偵としての特権的な地位を喪失」する一方で、第一話の後半では生徒会長アンリエットとしてミルキィホームズに「トイズ=探偵復活」のチャンスを与える役回りを果たしています。*12つまり、「アルセーヌ=アンリエット」は「トイズを使う探偵のいる世界」の破壊と再構築のカギとなる人物であり、その意味では京極堂のような、探偵ではないが世界に対して影響力を持つ存在であるのです。更に言えば、アニメ版の最後にミルキィホームズのトイズが復活したとしたら、その結果復活するの世界というのは「探偵」対「怪盗」という構図が中心にある世界であり、これはまさに乱歩的な探偵小説世界の復活につながるわけです。あな、恐ろしや。

4.まとめと展望

 以上、新本格以降のミステリ小説の文脈をまとめた上で、そのコンテクストにそってミルキィホームズ探偵物語としての可能性について考察してきました。ただ、現状ではゲーム版に関する情報が不十分で、アニメ版に関しても重要な描写が十分になされていないため、考察というよりは暴論気味のアクロバティックな推論になってしまっています。ただ、いずれにしてもトイズという能力が彼女たちの探偵としての肝であり、その描写自体は1990年代中盤以降の本格ミステリの流れに沿っていると言えるのではないでしょうか。

 ミステリが拡散をし、探偵がいないミステリやミステリ風の小説が増え、登場したとしてもただの狂言回しとして使われることが多くなってきている中で、ミルキィホームズは真正面から探偵の喪失と回復に向きあった物語として展開されています。ぱっと見るとただのギャグアニメであり、探偵(笑)に見えるかもしれませんが、少なくともゲーム・アニメ全体を見渡した時には、探偵物語としての位相が一つの重要なファクターになるはずです。


 ですので、新本格で小説の世界にどっぷりはまってしまった身としては、ミルキィホームズはギャグアニメとしても楽しむ一方で、探偵物語脱構築の可能性をどこまで示してくれるのかにも注目しながらこれからも見守っていきたいと思います。


 参考:無数の可能性を秘めた物語と「約束された結末」 −探偵オペラ ミルキィホームズ― From わたしは趣味を生きる。

*1:法月はクイーン研究の第一人者としても有名であり、そもそも刑事の親を持ち、自らは探偵として活動する綸太郎という構図自体が、エラリー・クイーンのそのままな訳です。

*2:探偵が事件に関わることで、逆説的に被害者が増えるというパラドックス。そもそも人が死ぬところにいつも現れる探偵という問題は、逆から見て極論すれば探偵がいるからこそ事件が起こると言い換えることも可能かもしれない

*3:本格ミステリはフェアな論理に基づいてトリックを構成するので、SFミステリのような特殊な設定がない限りにおいては、物理的に起こり得ないトリックはアンフェアだとされる。つまり、情報を正しく集めれば解けないトリックというのは存在してはいけないということになる

*4:この場合の人は読者でもあるし、探偵を含む物語の登場人物も含みます

*5:京極堂の場合は正常に戻すというよりも、誰もが納得できるような世界線に強引に落とし込んでいるわけで、本人が言っているようにもう一度憑き物を付けているわけですが

*6:いい意味でも悪い意味でもミステリの革新という意味では清涼院流水についても語るべきなのでしょうが、それについて書きだしたら帰って来れなくなりそうなのでここでは割愛します。また、新本格第一世代に関しても、本当なら麻耶雄嵩のアンチミステリ的な態度については書きたいのですが、同じ理由で割愛しました

*7:イン ライブラリー』や『リトル ホラーズ』などからもわかるように、『マリみて』の短編集は総じて謎解きの形式で話が進んでいく気がします

*8:伊坂幸太郎も2000年『オーデュボンの祈り』で新潮ミステリー倶楽部賞してデビューしつつ、徐々に純文学色が強くなっていくという点では西尾維新と似ている側面があると思います

*9:伊坂作品の場合はカッコイイ泥棒が推理的な事を行うといったケースもしばしばみられるのも面白い特徴の一つだと思います

*10:ただ、最近のミステリ作家については僕が十分にフォローしきれていないので、申し訳ないですがここでは割愛させていただきます

*11:もちろんスタッフが意識的にやってるとは思いませんが

*12:ただ幻惑のトイズのシーンを見ると、ミルキィホームズがトイズの力を失ったのが幻惑のトイズのせいだとははっきり明言できないようになっているので、微妙なところではありますが