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巷にあふれる「むごいパネルディスカッション」の5つのパターン!?

中原淳立教大学 経営学部 教授
(写真:アフロ)

セミナーやフォーラムでよく「パネルディスカッション」ってありますよね?

壇上に何名かのパネラーが座って、はなすやつ。

ところで、皆さん、パネルディスカッションって、聞いてて「面白い」ですか?

最近よく思うことに、「パネルディスカッションって、そもそも、何だろう?」ってのがあります。

別の言葉でいえば、「何があれば、パネルディスカッションなのか?」「何を失えば、パネルディスカッションではなくなってしまうのか?」これがさっぱりわからなくなっているのです。

ようするに僕は「パネルディスカッションというものが、あまり好きではない」のです(笑)。で、たぶん、それに不満を抱えている人も少なくないと勝手に想像する(笑)。だから「パネルディスカッションを、もう辞めにしませんか」ということです。

なぜなら、全部とは言わないけれど、僕自身がパネルディスカッション全体で「知的にくすぐられた経験」が、あまりないから。

誤解を避けるために言っておきますが、パネルディスカッションに参加する個々の登壇者の話には「なるほどね」と首肯してしまうお話もあるのですよ。いや、個々のお話しは、知的興奮を覚えてしまうことも多々あります。

ただ、「パネルディスカッション全体」「場全体」としては、「面白いねー」と思ったことはあまりないのです。

これは自分がパネラーとして登壇しているときも同じです。まことに申し訳なく、かたじけなく思います。

ありがたいことにオファーをいただき自分で登壇していたとしても、

「あー、かみ合わないな、オーディエンスの方々に申し訳ないな、カタジケナイな。くるんじゃなかったな」

と後悔することの方が多いのです。

まー、「好き」とか「嫌い」とか言っていても、埒があかないので、一応「なんちゃって研究者」らしく、もう少し別の言葉で言い換えてみましょう。

つまり、こういうことですね。

「パネルディスカッションという場、場のしかけ、相互作用の構成の仕方が、学びの観点から見て、優れているとは思えない」

これだね、言いたかったことは。

パネルディスカッションって、そろそろ、考え直しませんか?

繰り返して言いますが、パネルディスカッションがあまり面白いものにならない理由は、「パネルディスカッションに登壇する人の責任ではないこと」の方が多いように思います(小生、言い逃れをしているわけじゃないですよ)。

厳しく自戒をこめていいますが、「登壇者の掲げる話題や発話」が、あまりにもクオリティが低い場合に、そうした事態も「ありうる」かもしれないけれど、多くの場合は、それが主因ではないように思うのです。

というよりは、そもそも、パネルディスカッションというコミュニケーションスタイルそのものが、「最初から話がかみ合いそうにない構成」「聴衆の心に刺さりにくい構成」によって実践されることが多いからではないでしょうか。

言い換えるならば、一般的な「パネルディスカッションの実践・形式」が、学びの観点からすると「プア」であると言ってもいいかもしれません。

「最初から話がかみ合いそうにない構成」ないしは「聴衆の心に刺さりにくい構成」のことを、僕は「パネルディスカッション文法」と呼んでいます。下記では、よくあるパネルディスカッション文法について説明しましょう。

パネルディスカッション文法には5つの形式があります。

文型1は、

「1. 聞く 2. 聞く 3.聞く 4.時間がなくなって、尻切れトンボで、帰る型」。

これはわかりやすいですね。

要するに、パネル「ディスカッション」といいつつ、登壇者のミニレクチャーないしは大放談が一方向的に続き、さらにはタイムマネジメントがうまくいかず、時間がなくなって、「えー、時間も押しておりますので、今日はこれでお開きにします」というかたちで、終わっちゃうやつです。

「おいおい、ディスカッション、どこいった?」

って感じですね(笑)。

文型2は、

「1. 観点 2. 観点 3.観点 4.みんな違ってみんないい型」

これは、パネルディスカッション全体に「イシュー(みんなで話すべき共通の課題)がない場合」に起こりがちです。

要するに、パネルディスカッションと称して、異なる観点・学問領域・立場の登壇者の意見発表が続くが、その後で、みんなで話し合うべきイシュー(問題)が「ない」ために(あるいは設定されていない)、最後は「みんな違ってみんないい」というオチになってしまう。

あの観点もいいよね

この観点もいいよね

その観点もいいよね

そうか、みんないいんだよ

みんな違って、みんないい

ふむふむ、幸せ。

いわゆる「文化相対主義」というやつですね。それぞれの「観点」の論者は、「相互不可侵」「相互不交流」である場合に、このタイプになりがちです。

「相互不可侵」で、「相互不交流」であるならば、なぜ、このクソ忙しいのに、全員で集まってパネルを行う意味があるのか、僕にはわかりません。

文型3は、

'''「1.発表 2.あさって質疑 3.発表 4.オレオレ質疑」型です

'''

通常、パネルディスカッションでは、会場にオープンに場を開かれます。

聴衆の中には、「自由に誰もが発言できる質疑の機会は絶対にあるべき」と強固に思い込んでいる人もいて、もし質疑がないと、文句を言ってくる人もいます。たいがいは自分が喋りたい人です。

「おれがしゃべりたかったのに、民主的じゃない!」

と、かつて怒られたことがあります。あのー・・・民主的って、どういう意味?

でもね、聴衆にはいろいろな方々がいます。同じ話を聞いても、人の感じ方・考え方は異なりますので、人がいろいろな疑問をもつことはあたりまえのことですし、それはそれぞれにリスペクトされてしかるべきです。

ですが、そこに「場の進行を無視して、誰がどんな発言をしてもいい」という「疑似民主的な理念!?」が働いたとたん、質疑は、「脱線」というか「暴発」しまくることが多いのです。

パネラーや司会者が

「えっ、何のことを聞いているのですか? そもそも質問の意味がわかりません」

「今頃、それを聞きますか? それ、さっき、話題が終わりましたよね」

「それって、人類の課題じゃないですか。そんなことを聞いても、答えられるわけないじゃないですか?」

と思わずツッコミをいれたくなる「あさって方向からの質疑」が、突然投げ込まれたりします。

許されるならば、こういう質問は「斜め45度の方向から便所スリッパでスコーン」とやってやりたいのですけれども、公衆の面前で、それもできません。

あるいは、

「えー、登壇者はまことにけしからん・・・オレは昔、こんなすごいことをしていて、カクカクシカジカ(5分経過)」

「えー、そんなことは、前にオレが、研究・実践していたのであって、それを勉強した上で・・・・(5分経過)」

という「オレオレ質疑」続くこともあります。

「オレオレ質疑」とは、「質疑」いう名を借りた「主張」ですね。

全然「質疑」じゃないんだ、実は(笑)。

言いたいことはただひとつです。

「オレって、スゴイだろー」(笑)

文型4は、

「1.やらせ 2.やらせ 3.やらせ 4.やらせ 5.過剰プロレスで白ける」型です

これは、ある意味、聴衆のことを考えて、パネラー同士が「やらせ」でケンカをふっかけたりするやつですね。僕も何度かふっかけられたことがあります。

ある意味、パネルディスカッションには「プロレス的」な要素があって、「やらせ」も少しはありえます。

ですが、「やらせ」というのは「高度な演技力」と「練り込まれたストーリー」が必要なのです。つまり、問われるのは、登壇者の力量と、司会者の企画構成力が問われるのですね。

そういうものがなく(自爆)、あまりにも過剰に「やらせ」を乱発するもんだから、かえって、聴衆が白けてしまうという現象が生まれます。

個人的にいうと、僕は壇上で、「仕組まれた論争」なんかしたくありません。

時間の無駄。

最後の文型5は、

「1.発表 2.発表 3.質疑 4.シーン 5.もうどうにも止まらない御大」型です

要するに、パネリストの発表が続いたあとで、質疑を聴衆に等のだけれども、多くの人の前で発表するには緊張するので、誰も手をあげない。つまり会場全体が静まりかえり「シーン」となってしまう。で、安易に司会者が「切り札」に使うのが「御大:エライ人」カードです。

'''「質疑がないようですね。それでは、○○大先生がお越しいただいているので、・・・○○大先生にお話しをきいてみましょう・・・・」

'''(エライ人の話が永遠に続く・・・もうどうにも止まらない。リンダ困っちゃう・・・笑)

というパターンですね。

無茶ブリされる御大もちょっぴり可哀想ですが、話は堰を切ったように続きます。

しかも、司会者の方から話を振ってしまった以上、司会者自ら、それを静止することはできません。

かくして、永遠とも思える「御大トーク」が続き、時間が流れます。

御大だって、たぶん!?、困ってるんです。

突然話を振られて、でも、何とか、立場上、「まとめ」なアカンやろ(笑)。だから「オチ」が見えるまで、話をやめるわけにはいかないのです。

この場合、御大が悪いんじゃないのです(笑)。そういうところで「御大カード」を切ってしまった方の責任ですね。

このように「パネルディスカッション文法」には典型的には5つの異なる形式がありますが(話半分できいてね)、実際のパネルディスカッションでは、これらが複雑に絡み合っていることは言うまでもありません。

こういう文法が複雑に「とぐろ」をマキマキと巻いて、パネルディスカッションという時間が構成されるのです。だから、僕はあまり好きではありません。

この背景には、下記のような問題がありそうですね。

1)タイムマネジメントの難しさ

2)イシューの設定をきちんと行うことの準備不足

3)場をオープンにしたときの統制不能さ

4)演技を行うことの難しさ

5)静止することの難しさ

などから、パネルディスカッションという形式は、なかなか場全体として、うまく理解を促進することが難しいのだと思います。あるいは、この形式で、聞いていて面白いディスカッションをやるには、よほどの「役者」が必要である、ということです。

個人的には、「パネルディスカッションという場の構成のあり方」を、そろそろ考えなおすことがあってもいいな、と思っています。特に、僕の専門である人材開発系の学会やら、セミナーならなおさら。

そして人生はつづく

立教大学 経営学部 教授

立教大学 経営学部 教授。経営学習研究所 代表理事、最高検察庁参与、NPO法人カタリバ理事など。博士(人間科学)。企業・組織における人材開発・組織開発を研究。単著に「職場学習論」「経営学習論」(東京大学出版会)、「駆け出しマネジャーの成長論」(中公新書ラクレ)「フィードバック入門」(PHP研究所)、「働く大人のための学びの教科書」(かんき出版)などがある。立教大学経営学部においては、リーダーシップ研究所・副所長、ビジネスリーダーシッププログラム(BLP)の主査(統括責任者)をつとめる。

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