泣きやむまで 泣くといい

知的障害児と家族の支援からはじまり、気がついたら発達障害、不登校、子どもの貧困などいろいろと。関西某所で悩みの尽きない零細NPO代表の日々。

「こんな迷惑をかけられた」からの差別は手強い

 グループホーム開設反対運動の件は、一日待ったら追加取材の記事がNHKから出てきた上に、自分がブログで紹介しようと思っていた調査を行なった研究者までその記事中に登場。なんというタイミング。
相次ぐ障害者ホーム反対の背景は
http://www3.nhk.or.jp/news/web_tokushu/2014_0127.html
 調査結果については、twitterで少し紹介したが、量的調査が難しい領域だとも思う。どのように変数を設定すれば、コンフリクトが生じやすい「地域」像を浮かび上がらせられるのか。「新興住宅地」で多い、というのは何となくわかるが、個々の懸念や不安が大きな運動へと変わっていくダイナミズムを説明するものにはなっていない。「世代」もどのぐらい影響しているのか。良質な事例研究をたくさん読みたいとも思う。
 解決策が「仲介者」に求められるのは事後対応として仕方ない。一方で、この種の話題ですぐに登場する「地域の有力者」っていったい何だよ、とも思う。町内会や自治会等の組織がいかに正に負に機能しているのか、も大事な問題。
 さて、差別解消法が「認可時に周辺住民の同意を求めなくてよい」としていることについて、追加記事は「ホームの設置に際して周辺住民の理解を得る際、事業者だけでなく、自治体も当事者であって行動する責任があるのだ、ということを意味しています」と書いているけれど、福祉関係者がずっと不満を抱いてきたのは「『周辺住民の了承を得なければならない』というのは差別であり、事業所の認可において行政が差別を助長してもよいのか」というものであったろうと思う。
 では、差別解消法の誕生で何もかも地域と無関係にできるかと言えば、結局そんなことはなく、多くが説明会を開くことに変わりはないだろう(事業種別にもよるだろうが)。「そんな施設ができるとは聞いてない」「なんで言わなきゃいけないんだ」というやりとりからはじまる地域でのコミュニケーション。絶望的にリスクが高い。
 苦情や反対運動に対して「それは差別だ」「差別解消法というのがあって」という主張も「実践では」あまり有意義とは言えない。かえって事態を悪くする。必要なのは、不安を払拭すること。それがステレオタイプで漠然としたイメージによるものならばよいが、具体的に「過去にこんな迷惑をかけられたことがある」「他地域でこんな話を聞いた」などと語られたときに、どうするか。
 数年前に高校生から「街で困っているように見えた障害者に『お手伝いしましょうか』と声をかけたら、いきなり『うるさい!』とキレられたのだが、どう考えたらよいか」と質問を受けたことがある。自分も仕事とは別のプライベートで同じような体験がある。ここからは何の教訓が得られるわけでもなく、ただ「そいつはひどい奴だ」と思って済ませればよいはずなのだが(もちろん好意的に想像力を膨らませるのもかまわない)、希少な接触がそのように強烈なインパクトを伴うと一気に「障害者とうまく付き合うのは難しい」まで飛躍してしまう。
 「悪い話」はたった一例あれば、反対者にとって十分であり、支援者には難しい説明が要求される。具体的な「迷惑」の経験から障害者を排除しようとすることを、人は「差別」として自覚しづらい。多くの人にとって「差別」というのは「根拠なく排除する」ものなのではないか。
 うちも次年度、たぶん事業所開設の説明会をしなければいけない(ちなみにグループホームではない)。その近隣にもたくさん障害当事者が住んでいる。その人たちがいかに地域の中で安定した暮らしを営み、周囲と良好な関係を築けているかという現実も対話には影響を及ぼしうるだろう。頑張ってきたつもりではあるが、多くの住民に対して十分に可視化できてきたのかについては自信がない。目につきやすかった相手とそうでない相手がいるようにも思う。もちろん人さまに見てもらうために支援をしているわけでもない。
 マジョリティからの一方的な「適応」を強いられるのはまっぴらだが、幸福に過ごしていられなければ無用なトラブルが生じやすいのも事実である。支援によって、日常的に安定した暮らしを営む当事者が増えていけば、長期的には人々から抱かれるイメージも塗り替えられていくのかもしれない。世間が抱く「障害者」への否定的イメージに憤るばかりでなく、適切な支援によってそのイメージを正しく導いていく、というのも支援者の大事な役割なのだろう。