うすぼんやりとした光

題名 愛の完成
著者 ロベルト・ムージル
発表年月日 1911年

愛の完成・静かなヴェロニカの誘惑 (岩波文庫)
ムージル
岩波書店
売り上げランキング: 414938
おすすめ度の平均: 3.5
4 きもちわるい
1 退屈の美学
5 合一


 オーストリア生まれの作家ロベルト・ムージルの著書『愛の完成』を繙いてすぐ、私は意識のうすぼんやりとした領域によって文字を追うときの感覚と、それに伴う優美な浮遊感に囚われたのでした。
 当時の私はヴァージニア・ウルフの『灯台へ』を読み終えてまだ日も浅く、あのような文体に憧れながらも、自分の目指している文体がまた少し違ったところにあることを感じておりました。あれに近く、あれとはまた違った文体……。まだ手にしてはいなかったのですが、輪郭はうっすらと見えていて、答えを中心とした渦にすでに身を任せている段階であり、あとは熟成を待つばかりといったところでした。そんな矢先、『愛の完成』に触れ、自分の求めていた文体の完成された形をそこに見付け、安らかな目眩とほのかに息苦しい興奮に包まれたのです*1。目に見えるものではなく、目に見たものを目を閉じてから再度思い浮かべ、瞼の内側に映った像の方を選択するような、現実のものの輪郭をはぎ取って幽霊の世界で戯れあう。そのような文体です。
 小説を嗜む人は、盲であることを嗜む人といえなくもありません。目の前の、ただ一つしかない確乎たる輪郭、唯一そこにしか占めることのない空間、色彩、あらゆる具体性、そういったものは文字の羅列の上には宿らず、ただ漠然と読み手のイメージの中で、現実と違わぬものという設定のもとに描かれます。未だ語られぬ背景の細やかな部分についても、詳細な記述が訪れるまで保留され、保留は解決されずともなんら居心地の悪さを感じさせず、我々は、足のない幽霊を見ながら、足がないことに気づかないまま読み進めるのです(なにしろ、今は、足があるか、ないかなんて、大きな問題ではないのですから……)。目を開けて体験する世界と書物を通じて体験する世界には縫い合わせることのできない巨大な隔たりがあります。文章で語られる以上は、抽象的にならざるを得ないのでしょう。抽象的であるということは名前を失うことです。匿名の概念が戯れ合う場でこそ語られうることもあるでしょう。そのような場であってはじめて言語を超越した内容を語ることが可能となるのです。言語を操りながら、言語では語り得ぬものを語る……、といいますと、人様を煙に巻いているような気さえしてきますが、実際、ムージルの文体はうすぼんやりとした光を追いかけるようであります。ただ、抽象の極みに転がり続けるうすぼんやりとした光を見つめるその目だけは、常に客観的な冷徹さを保ち続けます。(結局、私はその文体を手にすることを諦めました。峻厳とした眼差しを保つことがとてもできなかったのです。ムージルにそれができたのは、彼に哲学者としての素養があったためでしょう)
 
 物語の内容は、人妻クラウディネが愛とは何かを考え、ついに完成された愛を見出すというものです。彼女は夫を愛しているのですが、ひとたび夫の元を離れますと、何かの拍子に浮気をしてしまうことは、旅先で事故に遭う可能性のように絶対にないとは言い切れないといった不安を抱くようになります。また、今の夫を愛しているのは偶然彼に出逢ったからに過ぎず、彼と巡りあうことがなければ今頃は他の男と結婚していて、今の夫のことなど何一つ思わなかったはずだと考えます。彼女は列車の旅の途中、乗り合わせた参事官から誘惑を受けます。(ムージルの文体は、列車に乗っている他の乗客を水彩画のように曖昧な影としてイメージさせ、それがとても心地よい)
 愛とはなんなのでしょうか。完成があるとして、それはどのようにして至れるのでしょうか。ムージルはそれを書ききっているはずなのです。はずなのですが、私には実のところ分からないのです。長編と呼ぶには短いこの物語を、もう何度も読み返しているのですが、いつも最後までついて行けないのです。抽象的なイメージの海を渡りきるだけの体力が、私には決定的に足りていないようなのです。いつも最後にはムージルの示した「愛の完成」の尻尾が、私の手からするりと抜けて扉の向こうへ消えてしまう。というよりは、最後の最後になって私は言葉を求めてしまう。抽象的なものを抽象的なイメージのまま捕まえることができなくなってしまう。本当は分かっているのに、ここでこうして言葉にしようと藻掻いて、すべて分からなくなってしまう。夢で見て、知って、理解した内容を、目覚めと共に曖昧な記憶に変えてしまうように。寝起きの掠れた視界によって捉える、カーテン越しに注ぐ朝の光のように。
 それは、うすぼんやりとした光なのです。

*1:もっとも、私が触れたのはムージルの文体そのものではなく、吉井由吉が訳した文体なのですが。