私は家庭内では、主夫として家事全般を引き受けている。さらに、結婚に際して妻の姓に変わっているわけで、日本人男性の中では珍しい生き方をしているのだと思う。

 もっとも、当人としてはさほど珍しいことをしているつもりはなくて、生活が珍しいものになってしまっては大変である。

 上の子供が生まれてからもうすぐ15年になる。それだけの年月、来る日も来る日も洗濯や買い物や料理をしてきたおかげで、いずれの腕前も妻の追随を許さない高処に到達しているのだけれど、それを素直に喜べないのはなぜなのか?

 また、私自身は普通だと思っていても、主夫という存在が少数派であることにかわりはない。

 すっかり顔馴染みになったスーパーの店員さんたちからは、「本当にエラいですよね」と折に触れて感心されて、そんなエピソードを旧知の女性編集者に話すと、「あたしたちだと、やって当たり前ですからね」と皮肉を返される中で、私は日々の暮らしを送っている。

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 なんのかんのと言っても、主夫をしていることでの“お得感”はかなりある。

 先の女性編集者がのたまわったとおり、女性たちは「やって当たり前」のものとして家事や育児に向かわなければならない。

 一方、男性であれば、「あえてやっている」もしくは「好き好んでやっている」という構えを取れるわけで、この差はかなり大きいと思う。

 おまけに私は小説家であり、妻は小学校教員なので、つまりは共働きとなり、子供は2人とも1歳から保育園に預かってもらった。

 だから家事をするといっても、小説を書く合間に1人でぷらぷら買い物に行ったり、一息ついたところで洗濯物を畳んだりと、いたって呑気にやっている。

 締め切りに追われてイライラしながら買い物をすることもあるのだが、勤めながら子育てをしている人たちのストレスに比べれば、私が負っているプレッシャーなど高が知れているだろう。

 なにより物書きにとっては、生活の中で起こるすべてのことが創作の役に立つ。本を読むのも大切だが、レジを打つおばさんの手荒れについ目が行ってしまい、こちらの視線に気づかれて、「夏なのに、荒れ性なんで困っちゃって」と返される関係の中で買い物をしていることが、私の小説を支えている。