ネットは既に現実の一部だけど、そこを分けておきたい人達もいる

人間関係をリアルとバーチャルに区別する意味はあるだろうか - きしだのはてな
リアルとバーチャルに壁はあるのか - novtan別館」を読んで。


ながらくネットを使って来てて、そこを通じて人と知り合ったり、その知り合った人と実際に会ったり、なんてことをしてる人にとっては人間関係をリアルとバーチャルに分ける意味なんて無くて、どっちも知り合い、ただどこで知り合ったかががちょっと違うだけ。

学校の知り合いだって、ご近所さんだって、会社の知り合いだって、知り合いは知り合い。そこにネットの知り合いというのが一つ加わっただけ・・・なんだけども、ネットの向こう側にはやっぱり自分と同じ人がいるということを想像できない人や、ネットとリアルで全く違う自分を演じているから絶対に交わらせたく無いという人達にとっては、ネットでの交流はネットの中だけに留めておきたいんでしょうね。



リアルとバーチャルを区別してる人ってのは、たぶん自分からその二つを切り分けて考えてるんじゃないかと。「単純にバーチャルで人と知り合うという現象そのものが理解出来ない」とか「リアルの知り合い>>バーチャルで知り合った人」という固定概念を持っているとか。


匿名と実名に込められた想い

それと、匿名実名問題は実は別なんだよね。ようは、関係をどのようにコントロールするかという点において匿名実名問題が出てくる。実名で活動するというのは、バーチャルでない部分の強固な関係性の構築をある程度相手側にゆだねることであるし、匿名で活動することは、関係性の構築をある程度こちらでコントロールしたいということになる。

リアルとバーチャルに壁はあるのか - novtan別館

ネットにおいて匿名で行動したいってのは、やはり実名と結びつけたくない、ネットでの活動をリアルの自分と独立させて行いたいという想いからくる。



ネット上でも実名を名乗るってのは現実における自分の存在をネット上に持ち込むってことで、結局のところネットもその後ろにはそれぞれの参加者が居て、それぞれ現実の自分を持っていて、ネット上の自分と現実の自分を紐付けるってこと。現実を拡張する手段としてネットを使う人にはそれが有効だろうし、現実と離れた、隔離された空間としてネットを楽しみたい人にとっては、そんなことしても何の利点も無い。


ネットはもうごく普通に存在しているインフラの一つになった


ネットがごくごく少数の人々のお遊び空間だった頃は終わり、誰しもが簡単にネットに参加でき、すでに数人に一人の割合までネット空間にも参加しているという状況においては、ネットってのはもう特殊な空間では無くなってしまったんだとは思う。

そりゃあ、まだネットに馴染めていない人の割合が多いかもしれない年齢が高い人々に向けた体面を取り繕うために、結婚式で新郎新婦のなれそめの紹介で、「ネットで知り合った(今ではこんなパターンは掃いて捨てるほどあると思う)」ってのを「知人の紹介で知り合った」と言い繕ったりはするけれども、そんなのもいつしか昔話となる日が来るだろう。



これから成長し、大人になっていく子供や若者達は、成長と共にネットという場所のことを知り、理解し、自然に使っていくのだろうけれど、もうすでに大人になってる人達もまたそこを理解し、使っていく必要が出てくるのは間違いない。ネットという空間を理解するために必要なのは、そこに参加して行動することがどういう影響を及ぼすかを想像する想像力だと思う。


ネットで可視化されるいざこざ


ネットをネットだけの空間として使いたい人と、ネットと現実をがっちり組み合わせて使ってる人との言い争いは、これはもうどうみても後者が有利。これはその存在にかけている覚悟の量というか、自ら逃げ道を封じて戦う人と、いつでも逃げられる準備をしながら泥玉投げてる人との違い。



ネットってのは誰とでも双方向性のやりとりができる可能性がある空間で、陰口が直接は届かない現実と同じ様な行動をしてれば直接本人の目に止まって反撃がくる可能性だってある。ネットは距離や場所を飛び越えるだけじゃなくて、発言がそのままそこに残ってしまう、そしてどこから道が繋がって本人の目に入るか分からないという特性もあるんだってことは、ネットを使うときに理解しておかなければならないリテラシーの一つ。