27歳で落語家へ。企業の正社員から突然、落語の世界へと足を踏み入れた一人の女性がいます。三遊亭美るく(さんゆうていみるく)さん、33歳。美るくさんは、会社員時代、疲れ果てた体を引きずるようにして、初めて観に行った落語に魅了され、その世界へ入ることを決意したそうです。
今は会社に所属していても先が見えない時代。会社員以外の道へと進む人も増えていますが、それでも多くの人が何をやりたいのかが見えなかったり、やりたいことがあっても、不安で踏み出せなかったりするのではないでしょうか。そのような人が、どうすれば一歩を踏み出すことができるのかを聞きたくて、美るくさんに会いに行ってきました。
ご自身が大転身を果たしているので、きっと、「すぐにでも覚悟を決めて踏み出せ!」と言うのだろうと思ったのですが、彼女の口から出た言葉は、少し意外なものでした。会社員の環境が、自分には合わなかった
大学進学をきっかけに上京し、卒業後は名の知れた会社の正社員として、4年間の会社員生活を送った美るくさん。しかし、毎日終電まで働くような激務の中で、心身ともに疲弊していったと言います。
そんなとき、美るくさんの様子を見かねたひとりの友人が、美るくさんを落語に誘ってくれたのです。会社員の生活を否定しているわけではないんです。ただ、自分には合わなかったんでしょうね。まわりの人たちが、人を蹴落としてでも上へ!というように見えました。挨拶もしないし、陰で人の悪口を言っている人も多くて。最初はカッコ良かった女性の先輩たちも、2年くらい経つとタバコを吸ってやさぐれちゃったり。会社では自分の未来の目標や、憧れの存在を見つけることができませんでした。
「疲れすぎだから、少し気分転換した方がいいよ」
ライブや映画など、大きな音が出るところは避け、日本の伝統文化を感じられるようなものをと、落語を観に、新宿の「末廣亭」に行ったそうです。当時まったく落語に興味のなかった美るくさんは、「落語なんて年寄りが見るもの。若者は笑えないだろう。疲れているから寝ていよう」などと思っていたのですが、実際に観てみると、おもしろくて一気にハマってしまったのでした。
その後、何度か落語を観に行くうちに出会ったのが、師匠の三遊亭歌る多(かるた)さん。当時45歳の女性落語家でした。
女性でも落語家になれるんだ! カッコイイ!! 自分もこんなふうになりたい!
雷が落ちたような衝撃を受けた美るくさんは、すぐに、歌る多さんに弟子入り志願。「苦労するからやめておけ」と一度は断られたものの、美るくさんの固い決意に、最後は師匠も弟子入りを許してくれたそうです。
まわりに迷惑がかからないよう、適切な引き継ぎ期間を経て会社を退職。辞める理由を聞かれることもなく、退職手続きは機械的に終わりました。
毎日掃除、27歳で一番下っ端の弟子生活落語家の弟子時代は「前座」と呼ばれ、毎日師匠の家に通って、一日中、お風呂、トイレなど、隅々まで掃除をすることから始めます。1カ月経つと出稽古に行かせてもらえるようになりますが、それ以外はまたひたすら掃除。稽古で習った落語を口ずさみながら、掃除をする日々でした。27歳でも一番の下っ端。10歳近く年下の先輩にはお茶出しもしなければなりません。
また、美るくさんには落語に関する知識もほとんどありませんでした。大きな声を出すために、ボイストレーニングを受けた方がいいのかと出稽古先の師匠に尋ねると、「江戸時代にボイストレーニングなんてあるわけねぇ! 大きな声を出してりゃ、出るようになるんだ」と言われたことも。しかし「ありがとうございます!」、「よろしくお願いします!」を大声で言っているうちに、本当に声が出るようになっていったと言います。このときの収入は、とても給料と言えるほどのものではなく、本当にわずかな金額でした。それでも、師匠の家と往復だけの生活では十分だったそうです。
とにかく必死だったので、不満なんて感じる暇はなかったですね。明日までに太鼓を叩けるようにならなきゃとか、今日の着物の畳み方は違ってたなとか、毎日そんなことばかり考えていました。もし人と比べる余裕があったら、イヤになっていたかもしれません。
2011年、5年間の厳しい前座時代を耐え抜いた美るくさんの元に一本の電話が。やっと、一人前の落語家と認められる「二ツ目」への昇進が決まったのです。
まだ出会っていない「何か」を見つけるために師匠から話を聞いたときは、生まれて初めて、嬉しくて体が震えましたね。私は田原町の駅にいたんですけど、周りを気にせず泣いてしまいました。電話の向こうで師匠も泣いていました。
新しい世界へと一歩を踏み出すときに必要なことは何なのか、美るくさんに聞いてみました。
まず、人に迷惑をかけないように辞めることかな。関係性を悪くしていいことはないですから。あと、自分の経験から思うのは、新しい世界の情報はあまり調べすぎない方がいいかもしれません。私は何も知らずに落語の世界に入りましたが、かえって良かったと思っています。もし弟子生活のつらさを知っていたら、踏み込むのを躊躇してしまったかもしれません。何よりも、『絶対やりたい!』という気持ちが一番大事ですね。
ただし、「無責任なことは言えないなぁ」と、一瞬、真面目な表情になった美るくさん。
もし本当にやりたいことが見つかったら、きっと迷う間もなく突き進むと思うんですよね。そして、今が本当にイヤでも、たぶん動いてます。もし迷っていて動けないなら、それほどではないというか、むしろ今の生活が合っているということもあるかもしれません。
きっと、新しく進む世界に対して、動かずにはいられないほどの情熱を感じられなければ、成功しないということなのでしょう。
では、美るくさんにとっての落語のように、"天職"とも言える仕事とは、どうすれば出合えるのでしょうか。
とにかくいろいろなところに行って、今とは違う世界に触れることが大事だと思います。"まだ出会っていないもの"がたくさんあるはずですから。最初は趣味程度でもいいので、興味を持ったことは何でもやってみて増やしていけば、その中から仕事にしたいと思うものも出てくるかもしれません。
そして、美るくさんは言います。
何かを始めるのに、年齢は関係ないと思います。人間の寿命なんて人それぞれ違いますしね。
常に「出合い」を求め続けること。そして、出合ったらその「瞬間」を逃さず突き進むこと。それが、「天職」に出合うための秘訣なのだと、美るくさんの話を聞いて納得しました。
誰でも、いくつになっても、運命の出会いを果たすことができる ──それは、もしかしたら、「今日」かもしれません。
(尾越まり恵)