わたしの9.11

9年前の今日起こったことを書いてみようとおもう。


9年前の9月11日、私はニューヨーク州に住んでいた。

9年前も、今日のようなこんな快晴だった。


夫はマンハッタンのミッドタウンにオフィスがあった。
家族全員が初めてのNYの地に降り立ってから、5年がたっていた。
小学4年と小学1年で連れてきた子供はそれぞれ中学3年、小学6年になっていた。
2人ともニューヨーク日本人学校に通学していた。
3番目の10ヶ月で連れてきた次男が地元の現地小学校に入学したばかりだった。




私は周りの駐在員の優雅な暮らしとは程遠く、
3人の送迎(これがアメリカにおける母の一番大事な仕事)に明け暮れ
長子と末子の9歳という年齢差からくる様々な障害のやりくりに明け暮れ
それでもこの子たちを健全に育てるということに喜びと
使命を感じて暮らしたいた。



長い夏休みが終わり、9月にミッドランドスクールという
地元の小学校に入学した次男が
9月11日は初めての午后まで学校にいるという日だった。


それは私にとって久々のまとまった自分だけに使える時間があることを意味していた。
私は次男を送ったあと、爽やかな9月の風に誘われて
この日、子供が生まれて以来初めてのウォーキングにでかけた。
近所のビーチの近くを気持ちよく歩いた。
ロングアイランドサウンドから遠くに豆粒よりも小さくマンハッタンらしきものが見えた。
あんなに遠くまで見通せるのは珍しい。
あそこで夫が働いている、そんなことを思った。




良い汗をかいて、自宅に戻ると
留守番電話にたくさんのメッセージが入っている。
全て日本からで「大丈夫か?」という内容。


私は訳もわからずテレビをつけた。




ちょうどワールドトレードセンターに2機目が突入するところだった。


「一体これは何だろう」



オサマ・ビンラディンの顔が何度も大写しになる。



テレビでは人がビルから落ちていくのが映されている。




「大変だ!」


すぐに夫に電話をした。
「大丈夫。なんともない。煙が見える。今日は帰ることができるかわからないけれど、なんとかなる」



次に日本人学校に連絡。
「課外授業でマンハッタンに向かっているバスに連絡がとれない。マンハッタンに入っていたら
橋が封鎖されているので、(マンハッタンは中州)いつ帰ってこれるか見当がつかない。
学校の電話に問い合わせが殺到するといけないので、窓口を決めてほしい。
他の保護者にはPTAの連絡で情報を流す」という事になった。




次男の学校にお迎えに行ったときには
地元の消防士さんや警察官のお父さん、
町の有力者が学校に集まって情報を収集しつつ
できることを考えているということを聞いた。




日本人学校から連絡があった。
息子のバスは橋の手前で引き返しているが凄い渋滞でいつ学校に帰るかわからない。
無事は確認ということだった。
携帯電話は繋がらなくなっていた。



娘は普通どおり学校から帰ってきた。
でも娘のクラスメイトのお父さんが行方不明になっていた。
それを知らずに遊んでいたことが娘にはショックだったようだ。




夕方遅くになって学校についたというバスの連絡を聞いて
学校に長男を迎えにいった。


息子は疲れていた。
そのバスにはボランティアとしてお母さんが一人乗っていらした。
そのご主人がワールドトレードセンタービルに勤務されていた。
最初、橋がテロで封鎖されているという段階ではよくわからなかったようだが、
どうも大変なことが起こっているらしいということでラジオのニュースを息子は
通訳するような形になった。
そして
ワールドトレードセンターに飛行機が突入して
ビルが瓦解しているということを報せると
そのお母さんは真っ青になった。
その傍で中学3年の彼女の息子さんが大丈夫だよ、と励ましていたと聞く。
バスからはどこにも連絡が取れなかった。
重苦しい空気のまま学校まで到着。
そこで初めてのご主人の無事が確認された。
みんなが歓声をあげた。



家のある通りの角の大きな家がその日引越しをしていた。
荷物が次次に搬入されている。
お母さんが赤ちゃんを抱っこしてそれに指示を出している。
私が挨拶をすると子供が5人いて手狭になったので引越してきた、
本当は学校が始まる前に越してきたかったのだけれども、でも今日で良かった
と言われた。


私が「なぜ」と聞くと、
実は夫がワールドトレードセンター勤務なんだ、という。
彼女はナニーさんから御手伝いさんまで沢山人手があるので
夫は今日は会議があるから仕事に行くと言ってたんだけれど
昨晩遅くに3ヶ月の双子の赤ちゃんが発熱し
今朝になってもひかないので、ご主人に今日は家にいて欲しいと頼んだそうだ。
そしてご主人は今家にいるのだけれど、
会社の同僚の誰一人とも連絡がとれないという。彼女のご主人は助かった。
しかし、この後、ご主人は同僚のお葬式に何度も何度も出ることになり、
その精神的苦痛は大変そうだった。





後でこのような子供に助けられた話は沢山聞いた。
子供の学校が始まったばかりなので
子供がぐずって学校にいかないから今日は特別夫に連れて行ってもらったので
助かった、など。




ニュースでは朝ワールドトレードセンターにいた水泳のイアンソープ選手が
ホテルにカメラを取りにいったので助かったと報道していた。
生き死にの不思議の綾。



携帯電話で「LOVE YOU」を最後に連絡をくれて
亡くなってしまった人の話も沢山聞いた。









次男の学校で
ブッシュ大統領の奥さんの署名のあるプリントが配られた。

「責任のある大人が一生懸命解決にむけて頑張っているのを信じてほしい。
パニックになったりしてはいけない。
憶測で話をしてはいけない。
でどころのはっきりしない事を信じてはいけない。」



正確には覚えていないけれどこういう文面のプリントが配られて
先生から説明があった。



それまで何となく頼りない坊ちゃんという感じのブッシュ大統領
案外うまく事態をコントロールしている、という感想が周りのアメリカ人からも聞かれた。



ジュリアーニ市長は
すぐに現場に到着し陣頭指揮をとっていた。
本当にその姿には「責任のある大人ががんばっている」
事態を収拾しようとしている思いが伝わってきた。




何人もの消防士さんが人助けをして亡くなった。
正義感が強く義理堅いと言われるアイリッシュ系の人が
多いとされる消防士さんに敬意を表する。




しばらくしてジュリアーニ市長は
ラジオやテレビで繰り返し、
「マンハッタンを助けようと思えば
 シティに来て買い物をしてほしい。」と何度も言っていた。




私は東京でこのようなことがあったら、
逆に買い物に来るなとか言いそうなのに、
さすがに
資本主義のNYシティだと驚いた。



私が驚いたことは他にもあった。


それは
現地校に迎えにいったりして、
かなり親しくなった人も
「被害はなかったか?」など
9.11関連の話はしないことだった。
みんな当たり障りのない話をする。



日本人学校のお迎えは逆で
「どこそこの何々さんが今すごく苦労されているらしい。」など
話していた。



私はアメリカ人は何か冷たいのかな、などと思っていたけれど
いろんなこと(行方不明者が死亡者になったりする)がわかる頃には
アメリカ人の態度が深くプライバシーを尊重し
配慮してると思うようになっていった。



もう一つ
驚いたのは
日本の新聞の書き方があまりにも
センセーショナルで
あたかもこの世の終わりのような書き出しであったことだ。
大きな写真。悲観的な憶測で満ちていた。
NYタイムズはそうではなかったので
その違いに本当に驚いた。




星条旗をたててる家がたくさんあった。
それにも驚いた。
みんな一つになろうという感じがあった。
Stand together
というような言葉がささやかれた。




9.11事件がおこってすぐ


私は直観的に
「これは歴史的にみると、
きっとアメリカ中心の世界からの
転換を意味する事件になる。
化石燃料中心のエネルギーからの転換。
消費社会の転換を意味する事件になる。」
と思った。




ハーレムに住んでいるアメリカの中での貧しい人と
アフガニスタンに住んでいる普通の人
どちらがたくさんのエネルギーを消費しているのか
ぜったいにハーレムに住んでいる貧しい人たちだ、と思ったからだ。


この地球的規模でみた不均衡が
こんな形で現れたのではないか、と思った。
タワーの倒壊はバベルの塔の倒壊を思わせた。



そんなことを考えながらも私たちは
帰国の準備に追われていた。



2002年に早々に帰国が決まっていたからだ。
帰国の直前のクリスマスに
家族でグランドゼロに行った。
何もなかったけど、行った。
地獄まで0マイルという標識がたっていた。







あれから9年たって
確かに時代は変わった。
アンドロイドもブラックベリー
フェイスブックツィッターもなかった9年前。
中国がこんなに強くはなかった。
黒人の大統領がこんなに早く登場する気配はなかった。
アフガニスタン紛争がまだ続いてるとか思わなかった。




世界はどこに向かうのだろう。
人口がどんどん増えて100億時代をむかえようとする現代、
9.11から学べることなんだろう。


戦争とはなんだろう。
平和とはなんだろう。
豊かであるとはなんだろう。



妄信的排他的にならずに
それでも自分の頭で
考えていこうと思う。



9年前の9月11日

あの日に思ったことを
今日また
もう一度思い出し
もう一度考えみようと思う。