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まいど!! 大阪各地の毎日新聞 |
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震災1カ月後の1995年2月16日、神戸市役所南側の公園「東遊園地」で、屋根にシートを張っただけのステージ「フラワーテント」が始まった。公園使用期限の1カ月の間連日、午後4時から8時までバンド演奏や演劇、狂言、落語が繰り広げられた。 桑名正博、山本リンダらプロから、「寂しいからカラオケを歌わせてくれ」という被災老人まで出演者は260人。集まった聴衆は延べ6000人に上った。スタッフの1人で自らステージにも立ち、被災者の笑いをさらったのが、当時大阪芸術大3年の鷲崎健さん(26)だった。 ◇ ◇ ◇ 鷲崎さんは両親と住む神戸市東灘区のマンションが全壊した。避難した小学校では、1日中横になったり、気力なく酒を飲むばかりの被災者を目の当たりにした。鷲崎さん自身、崩れた町並みに何も感じないほど「感覚がまひ」していた。 音楽好きの鷲崎さんは震災をテーマに歌作りを始めた。「シャレにならない悲惨な状況では、もう笑い飛ばすしかないと思った。深刻な歌、がんばろうと励ます歌は作る気がしなかった」 “村山首相も来てみたが、ちょいと これまたお呼びでない” ギターを手にオリジナル曲「震災音頭」を恐る恐る披露すると、聴衆から手拍子がわき、「よ、日本一」の掛け声が上がった。「みんな意外に強いなあ」と感じた。曲は次々と生まれた。「震災のタンゴ」では、「上を向けば、ああビルがない 下を向けば、ああ道がない」と歌い、聴衆の被災者は腹を立てるのを通り越し、笑い転げた。 フラワーテントを訪れたある中年男性は家がつぶれ妻を亡くし、死に場所を求めて歩き回っていたという。だがステージの熱気に触れ、「死ぬ気がしなくなった」と語った。 ◇ ◇ ◇ 鷲崎さんは震災の翌年、大学を卒業し上京。音楽スタジオでアルバイトしながら曲作りし、ライブハウスでコンサートを続ける。「フラワーテントで身近な人とつながりができ、自分も元気になれた。今度は、遠くの見知らぬ人も元気にできるような曲を作りたい」と語る。 今月16日には、東京・新宿の都庁都民広場で開かれる防災イベントで、数年ぶりに当時の震災の歌を歌う。譜面は残っておらず、記憶だけが頼り。「東京の人には見向きもされないでしょう。でも何人か立ち止まったら、勝ち、かな」とひそかに心期している。【重長聡】
第6回阪神淡路大震災チャリティーコンサートが31日午後7時、大阪市北区のザ・シンフォニーホールで開かれる。関西のクラシック音楽関係者が中心となって、1995年から毎年続けているコンサートで、これまでに収益金3900万円を被災地に送ってきた。今回は収益金をトルコと台湾の大地震救援にも役立てる。 プログラムはモーツァルト「レクイエム」、ドボルザーク「チェロ協奏曲」ほか。 出演は指揮者が朝比奈隆=写真上=、岩城宏之=同下=、延原武春、本名徹次。独奏は上村昇(チェロ)、長原幸太(バイオリン)、三原剛(バリトン)。演奏は大阪フィルや関西フィルなど10団体による特別編成オーケストラ。合唱は関西歌劇団、関西二期会など10団体が参加する。 6000〜4000円。(06・6361・1737)。(若)
◆堀内正美・震災モニュメントマップ作成委員会事務局代表・俳優 阪神淡路大震災から 4年目の昨年1月17日、兵庫県内(被災10市10町)に出来ていた55カ所のモニュメント(慰霊碑・追悼碑など)を記した「震災モニュメントマップ」が完成した。 被災地には、悲しみや苦しみを忘れたいという気持ちと、忘れてはならないという思いが交錯していた。が、私たちは、「6430名にもおよぶ尊い命を失ったつらい体験や、所属や肩書、国籍や宗教の違いを超えて互いに支え合った体験を、生き残った者として語り継いでいかねばならない。これこそ私たちの責務ではないか」と考えた。 そんな時、モニュメントの写真(33カ所)と出合い、衝撃を受けた。愛する家族の墓は「個人の死」「プライベートな死」として、内なる思いから建てられる。一方、パブリックな空間に建つモニュメントは「みんなの死」として慰霊や追悼だけでなく、生きている者たちに向けてのメッセージが刻まれているのである。私たちはそれらを「震災モニュメント」と名付けた。あの時の体験を風化させず、365日どこかで震災が語られるためのツールとしてのマップづくりはこうして始まった。ただ不安があった。遺族の方々に受け入れられるかということだった。大学生の息子を亡くされたご夫婦に、マップを手渡した。 「こんなにいろんな所に……。今までは死んだ息子の名前しか見えなかった私たちですけど、このマップを見て、ほかの亡くなられた方々の存在が初めて見えました。ありがとう。これからはみんなのためにも祈ります」と言われた。それまではこのご夫婦にとって愛する息子の死は「プライベートな死」であり、他の6429人の死と共有するものではなかった。「マップ」が心の扉を開いたのだ。その後、このご夫婦は各地のモニュメントを訪れ「みんなの死」と向きあい、息子の死を受け入れようと語り始めた。 今、モニュメントを訪ねる「震災モニュメント交流ウオーク」が十数組の遺族の方々を中心に行われ、新たに作成した「2000年版震災モニュメントマップ」には、120カ所のモニュメントがしるされた。 「死者は、その死によって、生き残った者に力を与える」。震災5年にこの言葉を改めてかみしめたい。 × × × 震災モニュメントの物語と地図などを載せた「震災モニュメントめぐり」(葉文館出版)も、出版されている。
宝塚市立中山台コミュニティ・センターで7日、同市出身の女性舞踊家、ゆみ・うみうまれさんが子どもに舞踊を教える「身体表現 子供のためのワークショップ」が開かれた。ボランティアグループ「フェニックスステーション中山台」(安藤純子代表)が、9日に同市で披露する阪神大震災被災者への鎮魂舞踊に出演する子どもを選ぶために企画した。 ゆみ・うみうまれさんは本名土屋由美さん。オーストラリア・メルボルンで舞踊家として活躍している。宝塚に住む両親が安藤代表の知人であることから、同ステーションの震災追悼行事に参加することになった。 この日、中山台地区の幼稚園児や小学生ら約40人が参加。ゆみ・うみうまれさんが子どもに「みんな石になってじっとしましょう」と呼び掛け、座りこんで丸くなった子どもに「石から芽が出て伸び上がってジャンプ!」などと指導した。 震災追悼行事は、9日午後2時から同市立ベガ・ホールである「2000年中山 新春ふれあいフェスタ」の第1部で、ゆみ・うみうまれさんと子どもが「Invisible いのり」と題して踊る。無料。【田畑知之】
阪神大震災で母を亡くした神戸市中央区大日通6、谷崎淑子さん(20)が10日、成人式を迎える。昨年9月に生まれたばかりの長女夕利安(ゆりあ)ちゃんは連れて行けないが、「お母さんみたいなお母さんになるのが目標」と、母として新成人の思いを語る。家事があるため、工場の夜勤をはずしてもらって子供2人を育てた父鷹見宗英さん(56)は、この日のために、娘に振り袖(そで)を用意した。 淑子さんは中学3年の時、震災に遭った。 2階建ての自宅の1階が崩れ落ち、寝ていた母和子さん(当時48歳)の胸の上に壁の塊が落ちた。鷹見さんは香料製造工場の夜勤で不在。2階で寝ていた淑子さんは、兄と2人で何とか壁を動かそうとしたが、びくともしなかった。和子さんは即死だった。 悲しみの中、高校に進学。家事のほとんどは鷹見さんが引き受けてくれた。何かにつけ母親に話していた淑子さん。友だちと話す時間を少しでも多く作ってやれば、気がまぎれるだろうとの配慮だ。転職覚悟で会社に頼み、午後5時までの勤務に変えてもらった。「それまで料理はしたことがなく、弁当までは持たせてやれなかったのがつらかった」と鷹見さんは振り返る。 淑子さんは昨年2月、アルバイト先で知り合った夫鉄也さん(29)と結婚。初めての不安も一掃するような安産で、夕利安ちゃんを産んだ。妊娠中に夢に出てきた和子さんが抱いていたのと同じ女の子だ。子を持ってからよく和子さんのことを考える。眠い目をこすっての授乳中には、「お母さんもこうして私を育ててくれたんだなあ」と。 新居は実家から歩いて1分。鷹見さんは毎日、夕利安ちゃんをお風呂(ふろ)に入れに来る。自分が家事を取り仕切るようになって、毎日慣れない手で料理をしてくれた父の苦労も分かるようになった。 成人式に行かないつもりだったが、鷹見さんがピンクの振り袖を用意してくれた。「結婚したので本当は留め袖だけど、ずっと前から着てほしかった」と鷹見さん。淑子さんは10日に父に晴れ姿を見せた後、母の命日の17日には、夕利安ちゃんを抱いた姿を初めて墓前に見せに行く。【亀田早苗】
阪神大震災で亡くなった子供の追悼コンサートを開く、日本基督教団西宮公同教会牧師で西宮公同幼稚園長の菅澤邦明さん(55)=西宮市 教団の調査では、震災で18歳以下の子供514人が亡くなりました。幼稚園では入園予定児を含めて3人が死亡。近所で生き埋めになった小5男児を掘り出したら亡くなっていた経験もあります。子供が死んだという驚きはいつまでも変わりません。子供の命について繰り返し考えていきたいのです。 パンフレットには毎回、子供たちの名前の一覧表をつけています。コンサートは教団への献金と入場料で開催。出演はクニ河内さん、新沢としひこさんです。【辻加奈子】 ◇コンサートは15日午後3時半、神戸市中央区の神戸新聞松方ホール。大人前売り2000円。問い合わせは教団兵庫教区事務所(078・856・4127)。
10日の成人式を前に、神戸市東灘区森南町1、大黒(だいこく)信子さん(44)は1着の浴衣を買った。阪神大震災で亡くなった長女久美子さん(当時15歳)が生きていれば、今年20歳。当初、子供を追って死ぬことばかり考えたが、皮肉にも一昨年7月に悪性リンパ腫(しゅ)と診断され、気持ちが落ち着いた。振り袖(で)代わりの浴衣を部屋に飾り、天国で久美子さんに「よく、明るく生きたね」とほめてもらえるよう、精いっぱい生きることを信子さんは誓った。 震災で2階建てアパートは全壊。信子さんと夫の電気工事業、肇さん(48)の2人は2時間後に救出されたが、久美子さんと長男の智志君(当時13歳)はその2時間後、遺体で見つかった。 地震から2日後、信子さんが家財類を掘り出していると、古い自分の手帳が見つかり、便せんが1枚はさんであった。「お母さんへ」で始まる、久美子さんからの手紙だった。 「いつも私のために いろんなわがままきいて下さって ありがとうございます。私なんて何のやくにも立てないけれど いつか親こうこうできる日をめざしてがんばりたいです! 天国からの手紙だ――。 手紙は、「お母さん泣かないで」と慰めてくれているようだった。 自殺を考える日々が続いたが、まもなく、胸部に水がたまっていることが分かった。入院後、担当医に「悪性リンパ腫で助かる可能性は60%」と告げられた。一時は抗がん剤で髪の毛がすべて抜けた。半年間の入院を経て、1年前に退院し、現在は小康状態。病と闘いながら生きる意欲を取り戻した信子さんは「久美子たちに、うるさいから来たらあかん、と言われているよう。情けない親のままではゴールインしたくない」と笑う。【重長聡】
<兵庫県尼崎市、主婦、脇田晶子さん(30)から、「震災の日」に生まれた2人の息子へ> 震災当日に生まれた長男翔矢(4)。その3年後の同じ日に生まれた二男勇真(1)。震災からもうすぐ5年。あなたたちの誕生はひときわ、多くの人たちに喜ばれました。まだ、あの日のことを理解できないかもしれませんが、少しずつ語りかけていくわね。この前、テレビを見ていたら、震災以来仮設住宅に住んでいた方が、やっと復興住宅のカギをもらうという場面が映し出されていました。5年もの間、夏は屋根を焼く暑さ、冬は底冷えの厳しい仮設住宅に住んでいたのかと思うと、何とも言えない気持ち。2000年を晴れて、新居で迎えることができてよかったな。幸い私たちは家を失わなかったけど、家や財産、家族を失った人たちのことに思いをはせることができる人間になってね。翔矢は、だれかが勇真のおもちゃを取り上げると、取り返して勇真に渡すお兄ちゃんらしさも出てきたね。人を愛することを学び、多くの人たちを愛し、そして愛される人になってくださいね。
宝塚市中山台地区で合唱やダンスなどの文化活動に取り組んでいる人たちの発表会「2000年中山 新春ふれあいフェスタ」(中山台コミュニティー連合会主催)が9日、同市立ベガ・ホールであり、同市出身の女性舞踊家、ゆみ・うみうまれさん(本名土屋由美)らが阪神大震災犠牲者への鎮魂舞踊を披露した。 鎮魂舞踊はゆみさんのオリジナルで、同地区の子どものダンスサークル「中山ウイークエンドクラブ」の約20人が共演した。読経のような男性の低い声が流れる中、白い衣装をまとったゆみさんが時に激しく、時には静かに舞い、その横を子どもたちが元気に駆けた。ゆみさんは「子どもの生のパワーを舞台に発散させることで、震災で亡くなられた方と今も生きる私たちとの対比を表現させたかった」と話した。 この日は、他に同地区にある県立宝塚東高邦楽部の演奏や、同地区の住民約70人によるベートーベンの交響曲第9番の合唱などがあった。【田畑知之】
「おめでとう、由紀」。西宮市霞町、会社員、雑部徹さん(52)宅で、震災で亡くなった二女由紀さん(当時14歳、市立大社中3年)の「成人式」があった。5年前、仲のよかった友人たちが「一緒に大人になってお酒を飲みたかったね」との思いで供えた缶入りリンゴ酒を開け、家族で思い出を語り合った。 ソフトボールが好きで、バラ色の中学生活だった。自宅が全壊、由紀さんはタンスの下敷きに。「痛いから、どけて」。短い言葉を残し、帰らぬ人となった。 「由紀はまだここにいる。それが家族の実感です」と母のヨシ子さん(50)。由紀さんの誕生日にはケーキを買って毎年お祝いを続け、今も納骨はしていない。仏壇の周りには、家族が旅行先で買ってきた土産物や、祖母が毎月あげているこづかいの袋などでいつもあふれている。 この日、由紀さんが大好きだったチーズケーキも用意し、両親と姉、弟の4人で祝った。ヨシ子さんは「由紀のことが頭から離れないのは今も変わらない。でも、私も少しずつでも上を向いて生きていきたい」と語った。 命日と誕生日には多くの友人が訪れる。友人の1人の宮城敦子さん(20)は「私にとって由紀さんの存在は今でも薄れることはありません」。今年の命日には、成人になった報告もするつもりだ。【鵜塚健】
成人式の10日、阪神間の各自治体でも新成人を祝う式典が行われた。新成人は阪神大震災当時、中学3年生。新しい旅立ちを前にしての無念の死をとげた仲間がいる。阪神間の公立中学で当時亡くなった中3生の友人や学校関係者らに、20歳を迎えることができなかった故人への思いを聞いた。 芦屋市の成人式会場には、震災で死亡した北井千香子さん(当時15歳)と親友だった中井絵奈さん(20)、八木のぞみさん(20)、井原朋子さん(19)の3人が振りそで姿で出席した。 全員、市立精道中ソフトテニス部で、北井さんは1994年の秋、中井さんとダブルスを組んで市民体育祭に参加、中学生最後の大会で初めて優勝した。 中井さんは震災の翌日、新聞の名簿で北井さんの死を知り、倒れ込んで泣き崩れた。遺体に対面した時、胸の上には優勝の賞状が置かれ、北井さんの母親が「これは持って行くから、もう1枚はあなたが持っていてね」と言った。 中井さんは、テニスの名門・夙川学院高校に入学。有力選手も多く、練習についていけずに何度も辞めようと思った。そのたびに「あんなにテニスが好きだった千香子の分まで頑張ろう」と思い直した。高校2年でレギュラークラスと一緒に練習できるようになり、テニスで大阪の短大に推薦入学を果たした。 3人が集まると北井さんの話になる。中井さんは「千香子も流行の化粧をしてるかなあとか、今、生きてたらどうだろうという話ばかり」。井原さんは「会場のどこかにいそうな気がする」。八木さんは「これからも千香子の分まで、頑張るので見守っていてねと言いたい」と決意を語った。【亀田早苗】 ◆…中3で亡くなった友人・教え子へのメッセージや思い出…◆ 故・雑部由紀さん(西宮市立大社中)……「小学校の時、仲が良かった。今日も会場に来る途中で彼女の家の前を通った時、一緒に成人を迎えられれば良かったなあと思った」(中学時代の友人) 故・岡田真紀さん(西宮市立浜脇中)……「バレー部で元気のいい子で、副キャプテン。ムードメーカーで彼女がいるとチームが明るくなった」(当時バレー部の顧問で担任教諭) 故・鈴木梨絵さん(西宮市立深津中)……「別の中学に進み、彼女の死は、新聞で知った。ここで会えたら『お久しぶり』と声をかけてたかも」(小学校の時に仲の良かった友人) 故・新井淳さん(西宮市立大社中)……「まじめで勉強熱心。成績も上位で自転車で遠出するのが趣味だった」(当時の担任教諭) 故・北井千香子さん(芦屋市立精道中)……「死んでしまったというより、遠くに引っ越しして、今でも電話がかかってきそう」(親友の一人) 故・植松素さん(芦屋市立山手中)……「バレー部で看護関係を目指していた。常に何かする時には彼女のこと思い出す」(親友の一人) 故・室田邦香さん(西宮市立甲陵中)……「一家5人で亡くなった。時々、尼崎市内にあるお墓にお参りに行ってます」(当時の担任教諭)。「小学校に入学して最初に友達になった子。一緒に成人になれずに残念だけど、天国で見守っていてほしい」(小・中と一緒だった友人) 故・糸川隆司さん(宝塚市立宝塚中)……「今でも死んでいるとは思えないし、いつまでも俺たちの仲間だ。機械いじりが好きで工業高校を志望し、震災前年の12月から進学のため補習を頑張っていたのに」(友人の辻下修一さん、香西卓哉さん) 故・今里有美さん(宝塚市立長尾中)……「明るくてだれにも好かれるタイプだった。今でも当時の友人が実家にお参りに行っている」(当時の担任教諭)
「お母さん、見てますか」――。阪神大震災で母を亡くした愛媛大医学部1年、尹(いん)玲花さん(20)が10日、神戸市主催の「成人お祝いの会」に友人らと出席した。母の希望だったチマチョゴリ姿。ピンクと白の布地に花柄をあしらった、この日のために新調したチマチョゴリが、ひときわあでやかだった。 母英子さん(当時44歳)は同市長田区の自宅近くにあった勤め先の喫茶店が倒壊し死亡。自宅も全焼した。震災前夜、成人式の話が出た時、英子さんは話した。「玲花はチマチョゴリを着てほしいな。きっと可愛いよ」 働きづめの英子さんに、「医者になって楽させてあげる」と約束していた。大学ではバスケットボール部に所属し、アルバイトもこなす。「やりがいがある仕事。早く医師として働きたい。外科医もいいかなと思っているんです」と玲花さん。指にはいつも、英子さんの指輪が光っている。【岡村恵子】 × × 総務庁の推計によると、昨年1年間に20歳の誕生日を迎えたのは、全国で164万人(男性84万人、女性80万人)。祝日法の改正で、今年から成人の日が1月の第2月曜日となった。
「いとん、成人式やで」。兵庫県宝塚市立宝塚中学校を卒業直前に阪神大震災で亡くなった糸川隆司君(当時15歳)の同級生4人が10日、両親から借りた糸川君の写真を抱いて、同市の成人式に参加した。5年前、糸川君のひつぎを担いだ仲間。その後も誕生日やお盆などに両親宅を訪れ、手を合わせてきた。「いとん、これからも一緒やで」と、亡き友達に呼び掛けた。 4人は短大生の中井真哉さん、フリーターの辻下修一さん、同、松井隆史さん、会社員の香西卓哉さん(いずれも宝塚市)。 糸川君は「いとん」の愛称で親しまれ、バスケットボール部で活躍。中井さんは震災の前の日、糸川君とテレビゲームなどをして遊び、「ほんじゃあ、バイバイ」と別れたのが最後だった。 翌日、中井さんと辻下さんは「いとんの家がつぶれた」と聞いて駆け付け、全壊した自宅のがれきの下から、こと切れて運び出される糸川君を見つめた。 「きれいな顔で、遺体を見ても死を受け入れられなかった。でも、葬儀の時に担いだひつぎの重さに、ようやく『ああ、もう帰ってこないんだな』と思った」と中井さん。松井さんは、その後も4人でいる時、「なあ、いとん」と話し掛けようとして彼がいないことに改めて気付き、寂しさが増したという。 糸川君を式に連れていくことは昨年のお盆に、同県伊丹市の復興住宅に住む糸川君の父幸信さん(49)、母貴美子さん(47)を4人で訪ねた時に決めた。 式では糸川君の遺影に、中学の同級生が司会を務めている姿も見せた。式の後、4人は糸川君宅に行き、両親に「心の中で思っていたことができてよかったです」と伝えた。 貴美子さんは「今も息子のことを気に掛けてくれる友達がいるのは本当にうれしい。他(ほか)に何と言っていいか……」と言葉をつまらせた。【田畑知之】
阪神大震災からの復興への願いを込めた県警音楽隊による「新春フェニックスコンサート」が11日、神戸市中央区の県警本部前広場であった。 震災丸5年の今月17日に先立ち、復興に取り組んできた県民にエールをおくる催し。隊員40人が、神戸太鼓をアレンジした和太鼓による「フェニックス太鼓」の演奏や女性隊員「HOPPS」のポンポン演技などを披露。冷たい風が吹いたものの、近くの市立生田中学校の生徒やサラリーマン、通行人らが、演奏を楽しんでいた。【藤田宰司】 |
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