"忌み子を忌み子たらしめるもの"『スプライス』(ネタバレ)


『スプライス』 予告編

 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督と言えばデビュー作『CUBE』だ。
 冷えた映像美と、ゲーム性に溢れながら無味乾燥とした殺戮シーン、登場キャラクターの人物配置と最後に生き残る者の人選に、『セブン』『ゲーム』を撮ったデヴィッド・フィンチャーのような透徹した人間観を持つ技巧派の才人監督が登場した、と捉えた向きは多かったのではないか。だが当時、僕はそれにすんなりとうなずけなかった。練り込まれた設定と美術の裏に「ぼくのかんがえたひみつのめいきゅうはすごいだろう」とでもいうような、若さと無邪気さ、小さく閉じたスケール感を感じたように思ったからだ。


 次作『カンパニー・マン』は、その二つのナタリ観、どちらが正しいかの証明になる、と思われた。果たして同じく冷たく不安感を煽る映像に加え、現実に疲れた夢見がちなサラリーマンをさらに追いつめ否定して行くシナリオ……ああ……彼はやはりクールなインテリなのか……? しかし映画は急転直下、ご覧になった方はご存知の通りの結末を迎える。
 愛の素晴らしさを謳い、僕たちはみんなスパイなんだと高らかに宣した本作を見て、僕は思った……こいつ、ただの夢見がちなオタク野郎だよ!


 ヴィンチェンゾ・ナタリ監督は、世界を描き現実を切り取り冷たく突き放す才人監督などではありません。自分の願望を、スクリーンの中で具現化することに賭けた、真性のボンクラなのです。


 そして僕は……そんなナタリ君が大好きです!


 製薬会社の下で、複数の生物の遺伝子を掛け合わせ、幾多の治療薬に必要なタンパク質を合成する生物を生み出そうとしている科学者、クライヴとエルサ。実験に成功し、次の段階として人間の遺伝子を組み込み、より人間の治療に役立つ生物を生み出したい二人だったが、会社は倫理とコストの問題でそこにストップを欠ける。研究への熱意を押さえられないエルサは、優柔不断なクライヴを押し切って新たな生物を生み出す。急速に成長して行くその生物は、すぐに人間らしい姿と知能を獲得して行く……。


 久々の作品がいかなるものになっているか、もちろん不安もあったのだが、思ったより遥かに濃密な内容になっていて驚いた。
 企業側が倫理的な歯止めを欠ける中、二人の科学者が暴走し、人間の遺伝子を持った新生命を生んでしまう。楽観的な想像はことごとく外れ、事態は彼らの想像を超えて行く。
 中盤までは、全ての関係性は親子の育児そのものだ。最初は父になった実感の持てない男と、自らの遺伝子を使用しているが故に(ここは「腹を痛めた」に相当すると言っていいか?)娘として「彼女」を見る女。無条件に娘を愛する母と違い、観念的にしか子を見れない男は苛立ちを露にし、つい手にかけようとまでする。


 ヒロインが自分の母親から虐待を受けていたことが、中盤に明らかになる。だが、それでも彼女は母にもらった人形と、二人で一緒に写った写真を捨てられないでいる。初めて持った娘を、彼女は無理解な父から守り、そうするのが当然というように愛そうとする。だが、うまくいかない。「娘」はやがて成長する。自我を持ち、自由を求める。そして、小さな子供でなくなり次第に思い通りにいかなくなる彼女に、母はやがて苛立ちを覚え、罰を与える。おそらく彼女の母が彼女にしたことを、また娘に対し繰り返す。自由を奪い、ペットを奪い、虐待を加える。


 僕は結婚しておらず、子供もいない。気楽な独り者だ。いつか、親になるのかどうかもわからない。だが、もしも親になったら、ということは時々、ぼんやりとだが考える。自分には、そんな資格があるのだろうか、と。
 思い通りにいかない子供に対して、育児を放棄したり、暴力を振るったり、話を聞かなかったりしないだろうか。ちゃんと責任を持ち、愛情を抱けるのだろうか。大丈夫、と言い切る根拠はない。


 覚悟も信念もないままに親になった男女と、「娘」の関係は急速に歪んで行く。母から虐待を受けた「娘」は父の庇護を求め、父はあっさりと欲望に負けて、妻と同じ遺伝子を持つ彼女と関係を持つ。
 ここをヒロインに目撃されるシーンは、この映画の最大の爆笑ポイントだ。半ケツで外を走るエイドリアン・ブロディの姿はあまりに戯画的だ。「娘」と関係を持った男の裏切りに、女は激しい嫉妬と怒りを覚え、不逞をなじる。「何だかわかんないままに……」というのは、浮気した男のお決まりの言いわけだ。


 ここに至り、ついに二人は、自分のたちの平和だった生活を破壊した「娘」を、抹殺することを決意する。


 SFの体裁を取りながら、ここで描かれているのは肉体的、性的な虐待を加えた後に子殺しを行おうとする、身勝手な親そのものだ。生み出すまでは科学者の倫理を問い、生まれて以降は親の倫理を問う。そして、その科学者の倫理を背景に抹殺を正当化しようとする。


 しかし、ここから構図が激変する。父との性交を経て「娘」が突然「息子」へと変わるのだ! 原型たる前世代の生物の雌雄の変化によって伏線が張られていたが、ここまで延々と「娘」を対象に話を引っ張ってきたのが急速にひっくり返る。
 凶暴になった「息子」は人間を次々と血祭りに上げ、本能に任せて母親をレイプ! すごいぞ! しかし父に深手を負わされ、母によってついに止めを刺されそうになる。もはや死は避けられない、となった状況で、彼は寸前に父を道連れにする。


 ラストシーン。完成した研究を前に、倫理を叫んでいた企業も、ついにそれを放り出す。女は「息子」の子を身ごもっていた。堕胎の示唆を拒否し、女はそれを産むことによって「失うものはない」と、かつて男の言った言葉を繰り返す。
 男が生きていれば、あるいは女は産むという選択肢は取らなかったかもしれない。「息子」はそれを予期し、死の間際に父を道連れにしたのだろう。雄同士の戦いの行き着くところは、他の雄を抹殺し、自分の遺伝子を残す事だ。


 出産と言う選択は、「失うものはない」という言葉の裏にある、あまりに多くを失いすぎた、他の全てを失ったことへの代償であり、科学者として、親として、ありとあらゆる倫理を踏みにじった者としての、せめて次の命だけは生かそうという贖罪であるとも取れる。


 伏線こそ張ってあったが、さすがにクライマックス前後の展開はそこまでに比べて飛躍しすぎたかな?という印象。子が「娘」のまま死んでも、一つの話としては成立したように思う。……なんだけど、せっかく科学の暴走から始まって新生物作ったんだから、ついでにオイディプス王もいれちまおうぜ!という悪のり感は嫌いじゃない。ジャンル映画らしい豊穣さではないかね(笑)。また、「父」と「母」どちらにも肩入れせず、両者の愚かさ、弱さを丹念に描く姿勢からも、男女平等に近親相姦を描かねば片手落ちである、という過剰なバランス感覚が感じられる。


 上記解釈ではあえて書かなかったが、じょじょに人間に似た容姿になっていくとはいえ、「子」は明らかに人ならざる異形だ。知性はあるが、言葉も発しない。これは当然、先天的なハンディキャップを持った子供を示唆している。施設内という「職場」で存在を隠される姿は、社会的な支援を受けられない未婚の果ての隠し子であることの隠喩でもある。登場人物の少なさは、社会から切り離された親子関係を描くためだ。
 出産と子育てから始まる親子関係の、出来れば目をそらしたい部分、そんなことが起きるなどと考えたくない部分に、今作は容赦なく切り込む。SF設定で誇張されているが、正直、ここまで踏み込むのか、と戦慄した。


 あれもこれもと欲張った設定は、やはりオタク的資質の証左だが、今作ではそれに加えて、親子関係を俯瞰して見据える醒めた視点を備えてみせた。そして、それでも「子」の側への共感を決して失わない温かみがある。親二人に向ける目線も、冷たいわけではない。誰であろうと、ああなるかもしれないのだ。
 前二作を経て今作へ辿り着き、ナタリ監督はより濃密な表現力を備え、作家としての完成度を増した。相変わらず一般受けはしそうにないが、過剰さや腰の据わらない視点も含めて、独自性のある傑作を生み出した。次回作は、できればさっさと撮って欲しいものだ。


 さて、ラストで妊娠中の「子」の行く末に関しては、不明だ。企業の道具となるであろうことは示唆される。では、産まれて来ない方がいいのだろうか? いや、産まれてくるその「子」がいかなる道を辿るのか、「忌み子」がなぜ「忌み子」となるのか、それは受け入れる我々の側の問題であることを申し添えておきたい。
 ……意外に、『ヘルボーイ3』で、奴らの仲間になって大活躍するような人生が待っているのかもしれないのだから。そうじゃないですか、デル・トロさん?

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