『教会法とは何だろうか』読んだ。

教会法とは何だろうか (成文堂選書)

教会法とは何だろうか (成文堂選書)

まえがきにもあるように本書は教会法の入門書ではありません。教会法に「入門」するにはキリスト教への知識が必要不可欠であり、本書はそのような知識を前提としない「門外漢」のための本です。

...教会法入門書ないし教科書を作成する必要性を指摘したが、本書はこのようなものではない。また、本書は教会法の専門家になりたいという研究者のために書かれたものではない。教科書または専門的な勉強の入門書というよりも、その中身はある程度“外から見た教会法の世界”のようなものだけである。つまり、不思議に思われる教会法の世界を覗いてみたい普通の法学者または法学部の学生のために書かれたものである。...
(まえがき iii頁)

そういう本なので、本書はまず教会法とは何であるか、その社会的役割などをまず述べ(第1部)、教会法と教会法学の歴史を概観し(第2部)、そして現行教会法の幾つか特徴的な条文を紹介(第3部)します。


私が本書を手にしたのは以下のような理由によります。
国家法というのは法の全てではありません。「法」を国家法に限定するならば別段(この定義では「国際法」さえも法ではないことになる)、一定の組織の構成員がある秩序に従い、それを担保するシステムがあればそれは法と呼び得るものでしょう。現実の生活においては、例えば会社員なら会社の社則や労働協約などの方が、国家法よりも影響力を持って生活を律しています。しかしこうした私的な組織(部分社会?)の内部の「法」は法学からは注目されません。しかしこうした私的領域において法的思考を持ち込むことは意味があるように思います。
そのように考えたときに、国家法以外で最も広く適用される法として、教会法に注目しました。カノン法(カノン法と教会法の区別は本書の最初に書かれる)は全世界のカトリック教徒に適用されるもので、その適用範囲は人口でも面積でも国家法を凌駕します。また、教会法はその永い歴史から既に数百年に渡り教会法学が研究されています。
しかし実際には教会法学であるが故に、私の要求とは違うものでもありました。すなわち、企業の法が国家法の下位法であるのに対し、教会法は世俗と信仰という別のレイヤーに属するものとして観念されています。また、教会法に当然に付きまとう宗教的性格も他の領域への応用を拒むものです。
そういうわけで、世界的に影響力の大きい「法」であるからこれを学ぶことはそれ自体で有意義ではあるけれど、その意義は教会法的な領域に止まり他の領域へのシナジー効果は無いような感じです。
つまり、楽しいけれど実用性は無い趣味の本です。面白かったから良いですけど。


さて、本書は教会法の入門書では無いけれども、教会法の雰囲気を味わうために、幾つか(現行の1983年新「教会法典」からは84)の条文と簡単な解説が掲載されています。「概説」書では原典は省略されがちであるところ、こうして充分な量の条文を掲載していることは、理解するためにとても有効だと思いました。
その中でも気になった条項などを幾つか。

Can.16 (2) 法律の様式を持って表示された公権的解釈は、法律自体と同一の効力を有し、かつ、公布されなければならない。法律の文言が明確であって、それを単に宣言するにすぎない場合には、既往に遡って効力を有する。法律の範囲を制限若しくは拡大する場合、または疑義ある法律を解明する場合には効力は遡及しない。

教会では、内部的な役割の分担はあるにせよ、三権分立は行われていません。キリストによるペトロへの委任に由来する神の法によって司教団の頭である教皇はキリストの代理者であり、教会の最高、十全、直接かつ普遍の通常権を有し、常にこれを自由に行使することができる(Can.331)ことになっています。
Can.16のように法律の解釈という司法的行為に立法的効果を付与するのは、こうした公権の統一・集中があればこそのものだと感じました。

Can.840 主キリストによって制定された教会に委託された新約の秘跡は、キリストと教会の行為であって、それによって信仰が表され、強められ、神に礼拝が捧げられ、人々の聖化が実現するしるしであり、手段である。こうして秘跡は、教会的一致をもたらし、堅固にし、表明することに最も優れて寄与する。したがって、秘跡の執行に際し聖務者も他のキリスト信者も、最大の尊敬と相当の注意を払わなければならない。

他の条文にも見られることですが、条文の中に立法趣旨等が説明的に書かれることがあります。こういうのはローマ法のような昔の法律のような雰囲気を感じました。

Can.1055 (1) 男女が相互に全生涯に渡る生活共同体を作るために行う婚姻の誓約は、その本性上、夫婦の善益と子の出産及び教育に向けられている。受洗者間の婚姻の誓約は、主キリストによって秘跡の尊厳にまで高められた。
(2) したがって、受洗者間においてはすべての有効な婚姻契約は、それ自体で秘跡である。
Can.1056 婚姻の本質的特性は、単一性及び不解消性である。これらの特性はキリスト者同士の婚姻においては、秘跡によって特別に強化される。

ところで教会法では神の法でありそれ故永久不変である「神法」と、そうでない人定法とがあるとされます。しかし、このCan.1055,1056は1917年の旧「教会法典」では以下のような内容でした。

Can.1012 (1) 主キリストは、受洗者間の婚姻契約を秘跡の尊厳にまで高めた。
(2) したがって、受洗者間においては、同時に秘跡とならない婚姻の契約は有効に成立することがあり得ない。
Can.1013 (1) 婚姻の第一目的は、子女の出産と育成であり、第二目的は、夫婦の相互扶助、および情欲の鎮和である。
(2) 婚姻の本質的特性は、単一性、および不解消性である。これらの特性は、受洗者間の婚姻においては、秘跡によって特別に強化される。
(1917年旧「教会法典」)

細かい文言の修正を除けば、旧「教会法典」でのCan.1013(1)に相当する部分が修正されています。

上記のCan.1012とCan.1013の(2)は、神法のことであるから、内容的に変わるはずもない。しかし、Can.1013の(1)で挙げられている「婚姻の第一目的」に関しては明らかに問題があり、全面的に改正された(新法典、Can.1055参照)。もし婚姻の第一の目的が、子女の出産と育成であるとすれば、年齢的に、あるいは他の理由で子供ができない夫婦はその目的を達せられないことになり、このような婚姻は無効であるとさえも言えるわけである。しかし、このような規定があったにもかかわらず、問題としては(実践の面では)、性交が不可能であるときに限って(このカノンで第二の目的としてあげられていること)、婚姻が無効であるとされてきた。
(122頁)

しかし、旧法典で見られた子の出産を婚姻の第一目的とする物は、果たして人定法といえるのでしょうか?条文の位置や文言のあり方、さらに、私はキリスト教の教義には詳しくないので誤解かもしれませんが、「産めよ増やせよ」というキリスト教にあっては子の出産こそが神に与えられた使命であって、そうであるからこそ性交の無いうちは婚姻は完成していないとされ(Can.1061(1))堕胎は罪である(Can.1398)とされるのでは無いでしょうか。
このように考えると、神法と人定法の区別は恣意的に行われているような印象を受けてしまいます。


そんなこんなで、当初の目的とは少しずれたけど、教会法はこれはこれでなかなか面白いと思いました。法学部を持つキリスト教系の大学は日本に沢山あるというのに、教会法学が日本では殆ど研究されていないというのは残念に思います。