性教育みたいな話

性教育は昔から二大勢力が争ってきた歴史と見ています。二大勢力とは、

基本構図はゴチゴチの理想論を推す純潔教育派に対し、現実教育派が「そうは言っても現実は・・・」として食い下がる構図です。長い長い抗争の歴史ですが、全体の流れからすると、強大な純潔教育派を現実教育派がジワジワと押し続けているすれば宜しいでしょうか。

性教育が課題になるのは、

これをどうするかの問題を巡るものになります。純潔教育派の考え方は単純明快で、性風俗の乱れとは夫婦以外の性交の蔓延であり、これを撲滅すれば性風俗の乱れは一挙に解消するです。確かに机上の理論としてはそうなります。

現実教育派の性風俗の乱れへの考えは、性交による感染症の蔓延や望まぬ妊娠の予防に重点を置きます。性交は人間の自然の欲求に伴う生理現象であり、これを不自然に抑制するのは現実論として無理であるとの考え方です。むしろ性交の結果によってもたらされる不利益の防止こそが性教育であるとの考え方です。

両派が相容れないのは入口論で意見が180度ぐらい違うためと見ても良さそうです。純潔教育派は性交が存在しなければ、性病も望まぬ妊娠もそもそも発生しないですが、そのために性交自体を敵視します。そのために性交自体を性風俗の乱れとしてとらえ、完全否定するのが立ち位置として良いかと思います。一方で現実教育派は性交自体を容認していますから、入口論で両派は必然的に激突する事になります。


両派が激突する場所は、それなりの公的な場所になるのですが、そういう場では純潔教育派が優勢になります。純潔派が真正面から「我が子、我が娘の無制限の性交を容認するのか」の正論を持ち出されると、現実派はの反論はなかなか厄介になります。なんのかんのと言っても、性教育と言う前提で性交解禁は是か非かと問い詰められれば、現実派とて意見が出しにくくなります。

ここも現実派の限界があって、性交を容認した上の性病や望まぬ妊娠予防に重点を置くと言っても、無制限の性交の容認まで是かと言われると苦しくなると言えばよいでしょうか。現実派とて、好きあっていれば性交まで進んで当然なんて論を展開しにくいと言う事です。純潔派にとって、性交の容認の是非の入口論を天王山に持ってきますから、現実派はここでどうしても劣勢になる基本構図があると見ています。

実際の経緯も入口論で優位を取った純潔派が主導権を握って性教育を進めてきた歴史があると思っています。ただ性教育の難しい点は、基本方針を巡る会議室では純潔派が優勢になり、純潔教育が基本として推進されても、問題はちっとも解消されないと言うのがあります。そこが現実派の拠り所であって、純潔派の方針では問題は悪化するばかりであるとジワジワと押し返していると見ています。


入口論の問題は性交の存在を是か非かで論じてしまうところに難しいところがあります。ここもレトリックがあって、「性風俗の乱れ」がテーマとなっていると「性風俗の乱れ = 夫婦以外の性交」になり、「乱れ」の是正は性交の撲滅であるの主張は正面から覆し難い主張になります。現実派の主張は純潔派にとって「性風俗の乱れ」の結果への対策であり、「性風俗の乱れ」の是正になっていないに展開すると考えます。

現実派の考えとして、是や非を論じても実際に性交は存在し、それを抑止する手段がないのだから、そういう現状にそって起こる悲劇を防止したいのはずです。現実派とて正しい性知識を教育する事によってフリー性交を推進する意図があるわけでなく、あくまでも実際には撲滅できない性交の存在を認め、認めた上での次の対策に重点を置くべしだと考えています。

両者の違いは本来的にはそんなに距離が離れているわけではなく、考えようによっては近く、なおかつ容易に妥協できそうなのですが、実際のところ水と油に近い関係であり続けていたように感じます。


純潔派の問題点は、入口こけたら皆こけるがあります。性交を否定しているわけですから、性交に関する知識を教える事自体も否定的になります。否定している行為の知識など教える必要もないスタンスです。ここも考えようによっては不思議で「いつ」学ぶんだになるのですが、その点については案外ウヤムヤなところがあるように思っています。

「寝た子を起すな」で象徴されますが、純潔派の思惑通りには寝ていてくれないのも現実です。生理的に嫌でも情報を欲しますから、興味本位の知識を乱雑に積み込む結果ももたらしているという表現も出来ます。この点については不思議なほど純潔派は言及しません。現実派が主張しているのはまさにこの点のはずなんですが、どうにも両派の主張はかみ合わない点が多々あります。

もう一つの問題点は性交否定は、性交そのものを罪悪視としてしまいます。罪悪視される行為は地下に潜りやすくなり、そのうえで発覚すれば本人も、周囲も大糾弾されてしまいます。ここも糾弾することにより一罰百戒効果を狙っているとは言えなくもありませんが、その効果が結果として抑止力になっていないのも周知の事です。



全体に純潔派に辛口になっていますが、ここまでは単純な状況分析です。ここで問題は現実に存在し、その対策もやはり望まれていると考えています。そういう中でどういう方向性が望ましいかを考える必要はあります。やはり結果からし純潔教育オンリーでは効果は乏しいとするのが妥当と思われます。これは長年の実績が物語っています。

現実派に大勢が動くためには、入口論を玉虫色の決着にしておかないと仕方がないと私は考えています。是か非のシロクロ決着にしてしまうと対策はその時点で硬直しますから、謙抑的な姿勢は堅持するとしても、あるものはあるみたいな決着です。入口論をこの程度で妥協しないと次に進みようがないと考えます。

入口論の枷が軽くなれば、現実派の意見は通りやすくなります。現実派とてフリー性交大歓迎の方は少ないでしょうから、結婚と言う形態の善し悪しは別にして、信頼できるパートナーとの正しい性知識での性交を教育する方針を打ち出せます。純潔派も様々でしょうが、この程度の妥協の上で、正しい性知識の普及に努める路線なら、折り合いをつけて、純潔派の主張を織り込む事も可能になると思います。


私も性教育の現場に詳しいわけではないのですが、全体としてそういう方向性に社会は進んでいるのでしょうか。それともどこかで足踏みしているのでしょうか。いやいや私のセンス自体が既に陳腐化しているのでしょうか。考えれば思春期の娘もいますが、完全にほったらかしです。私の年齢では、娘の前で滔々と語るのはチイとばかり気恥ずかしいですし、娘も嫌がります。

まあ私は出る気も、そもそも呼ばれる理由もないのですが、性教育のための○○審議会の光景を想定すれば、やはり基本的に純潔派的な意見はどうしても強くなると思います。構成される委員の年齢層を考えると、持っている性道徳は3世代以上前のものであるとするのが妥当です。これに「昔は良かった」式の思い込みが加わりますから、「今は乱れている」の現実認識に傾きやすいと思わざるを得ません。

それに真昼間のシラフの会議で、そういう世代の委員が「性交の容認とその結果への対策」みたいなテーマで議論すれば、論じやすい純潔教育論が主体になるだろうと思ってしまいます。それでも少しづつは変わっていくのが世の中と言う事でしょうか。