「見世物としての論争」に興味がもてません

気が付いている人も多いと思いますが、私は最近かなり意識的にブログの内容を変えています。

以前はテレビやネットで話題になった大きな事件や出来事について、自分の考えを書くことも多かったのですが、最近は電王将棋や梅原大吾さん関連のエントリを一ヶ月近く続けるなど、時事トピック以外について書く日が増えています。

これは、(最近マイブームの流行り言葉でいえば)、ちきりんなりの“大局観”に基づく方針転換です。


背景として、いくつかの要素があります。ひとつは、旬のニュースだけを追いかけていると、内容があっというまに古くなってしまうこと。アベノミクスや株価の乱高下について書いても、来年になれば誰も読んでくれません。時事トピックに乗っかったタイプのエントリは、消費期限が短いんです。

一方、特集型のエントリは、長く一定の関心を集めてくれます。私は、「ブログは蓄積がすべて」だと考えているので、できる限り、「数年後に読んでもおもしろいエントリ」を書きたいと考えています。


たとえばコンピュータ将棋については、向こう数年の間に(再びプロ棋士がコンピュータに負けるなど)、なにか大きな出来事があるたびに、定期的に話題になるはずです。

そういう時に、みんながそれについて検索したら、「Chikirinの日記」上に一定のまとまった数のエントリがあることは、このブログにとって大きな意味があります。

「次に世の中が電王戦について盛り上がる前に、なにかしら書いてストックしておくべきじゃない?」、「そうしておけば、その先に自分にとって、いい感じの局面がありそうだよね」と考えたわけです。


もうひとつの理由は、私が「Chikirinの日記」を読んでもらいたいと思っている想定読者層が、時事トピックについてのエントリを好む層と、ズレ始めてきたと感じるからです。

私には「こういう人に、このブログを読んでほしい」という明確なターゲットイメージがあります。そういう人たちは“日本の人口の 500人に一人程度”であろうと考えており、(赤ちゃんとか小学生とか超高齢者とかを除くと)日本全体で16万人から20万人くらいはいると推定しています。

今のところ、そのうち10万人くらいにはリーチできていそうなのですが、反対に言えば、あとまだ倍程度の未開拓市場があるわけです。


これまでは、社会的な時事トピックについてあれこれ書き、万遍なく注目を集めることで、それらの人たちにアピールできると考えていました。

でも最近は傾向が変わってきたと感じます。

ここ1年くらい、時事トピックについてのエントリを好む人は、「論争を見るのが好きな人」に偏りはじめています。ネット上の言葉では「炎上を見るのが好きな人」、もしくは、テレビ的に言えば「ワイドショーが好きな人」です。


これは、必ずしも積極的に火に油を注ぎたい人だけではなく、論争を眺めてその様子を楽しんだり、自分もコメンテーター気取りでなにかひとこと言っておきたい というような人も含みます。

彼らは、有名人が、「炎上しやすい(論争になりやすい)トピックについて発言してくれること」を心から楽しみにしています。そういうトピックでは、どんな意見を言っても、必ず反対側の立場の人から叩かれるので、それを見るのが楽しいのでしょう。


ここでいう論争になりやすいトピックとは、上杉隆さんが経歴詐称をしたとか、橋下大阪市長の慰安婦についてや、猪瀬都知事のイスラム圏に関する発言、そして、乙武さんがレストランで遭遇したトラブルについて、などです。

世の中には、そういったことについて、「一見論理的に見える賛否両論の意見が多数錯綜し、お互いがお互いの論理の隅をつついて非難しまくる様子を観戦すること」が、楽しくて楽しくてたまらない! という人がいます。

中でも、「影響力のある人同士が論争をするのを見たい!」人は多く、彼らは「ちきりんも論争に参入してほしい」と考えています。

私が何も書かないと、「○○についてどう思いますか? ぜひブログに書いてください」と言ってきたり、「ちきりんが○○について書かないのは、○○を支持しているからだ」などと裏読みする人もいます。


そういった人たちは、水たまりで泥んこになって戦う女性戦士を見たいとか、動物同士が戦うのを観戦したいと思っているのでしょうが、私自身は、そういう場所における見世物のひとりになりたいとは、まったく思いません。

そもそも、これらの論争は多くは、何らかの結論を出したいがための論争ではありません。「有名人が興奮気味に、必死で論争している状況が大好き!」という人が楽しむための、「論争のための論争」です。

もしくは、「見世物としての論争」と言ってもいいでしょう。テレビでは以前よく、デビ夫人や野村幸代さんが担当されていた部分です。



テレビがそういった番組で視聴率を稼いできたように、ネットでも、突発的に盛り上がる見世物的な議論にタイムリーに参戦すれば、PVは大きく伸ばせます。また、そういった論争について、ツイッターで継続的かつ積極的に発言を続ければ、フォロアーも増えるのかもしれません。

でも、それでは書き手は結局、ネット上でちょっとした憂さ晴らしをしたい人に、ストレス発散の材料を提供するだけの役割になってしまいます。


でも、それは私がやりたいことでも、「Chikirinの日記」を位置づけたいポジションでもなく、さらに、私がリーチしたい残りの 5万人から10万人が、そのグループに含まれているとも思えません。

私が獲得したいと考えている読者層は、誰かの失言を鬼の首を取ったかのようにあげつらい、ツイッターでもっともらしい正論や正義感やらを振りかざして虚栄心を充たすという、そういうタイプの人ではないのです。


以前、プロ格闘ゲーマーの梅原大吾さんが、「勝つことより、勝ち続けることが大事であり、そのふたつのために必要なことは、時には正反対のことである」と言われていました。

私にとっても日々の PVより、長期的にこのブログや、“Chikirinという書き手の価値”を高めることのほうが、よほど大事です。そして、そのふたつの目的のためにやるべきことは、やはり「正反対のこと」だと感じます。

「誰に読まれたいのか」、これが私にとって、とても大事なことなのです。



8年も書いているので、「Chikirinの日記は昔のほうがおもしろかった」と言われることもよくあります。でも、先日、M社を訪問した時にも言ったのですが、私は、「昔のほうがよかった」という人の意見は、なんであれ“ガン無視”することに決めてます。


「昔のほうがよかった」と言ってる人と、
「最近の若者はダメ」と言ってる人に、
まともな人はいません。


というわけで、これからも“ちきりんなりの大局観”をもって、ブログ運営にあたっていきたいと思います。


そんじゃーね!