「マンガ表現規制問題の根源を問う」呉智英先生

(司会)
趣旨:東京都条例改正案のキーワード:非実在青少年が一人歩き。同時多発的に他府県でも同様の。大阪府京都府。関西における児童ポルノ(所持)に関するテーマについて考えるべきことがでてきた。京都府=マンガミュージアム。一回目については作家の意見、海外事例の報告、現状の報告があった。今回のシンポジウムは通底している根源的な問題(思想)に関する二つの柱。一つ目は、表現を研究素材とする歳に学問は何をなし得るのか、知識人は何をすべきか。呉さんから文化論文明論。二つ目は、現実にどう対応していくか法律の問題。どのような仕組みを持ち、どのように対処していくか。考えを深めることもあれば、認識を改めるものもあるかもしれない。40分の公演x2+質疑応答が一時間強の予定。

呉智英先生)

三月の民主党への陳情のときも出席。漫画規制に反対の立場。表現規制に対して反対する立場の理論水準があまりにもひどいことを痛感。3月の集会のときに更に痛感。反対している人たちの心づもりがあまりにもひどい。漫画に限らず性表現規制、主に国家権力がしてくるわけですけど、これじゃいかんと言っている人たちの理論はあほらしいもの。生産的なものとして蓄積されない。政治集会の場合は単純にスローガンを立ち上げる。色々な議論があることはおいといて。日本の労働者を守れといったときに戦争になったときはどうなるかetc考えずにやらざるをえない。労働者が置かれている立場、歴史、使命が見えてこない。だがそこをみないと議論はやせ細ってゆく。いかに馬鹿らしい議論がされているか。私含め何人かが民主党議員に対して陳情しに行った際、ある技術系大学教授がばかばかしいことを言っていてどなりつけたくなったが政治集会なので何もいわなかった。青少年規制を欠けられているのは同人誌、婦女子=社会に出て行けないナーバスな人たちを傷つけないでください。馬鹿じゃないか。政府はいたいけな少女が傷つけられているのをどうするんだと言っているときに、20歳以上の社会不適合でナーバスな人を守れというのは間違いだ。いい大人じゃないか。反対の議論にならない。あきれかえった。漫画家の人たちになるときわめて単純な議論になる。漫画家にとっての創作意欲がしぼむ。漫画家は漫画創作にエネルギーが行っているもので文化論的に考えることはフィールドではないため、過大な期待は抱きません。実作者ではない、評論家と言っている人がそのレベルでは議論が蓄積されない。多くの人が法律論の枠内で、憲法で、国連憲章で、だから我々はポルノ漫画を見る権利があるのに国家権力が弾圧すると。法律論は大切で山口さんから話があるだろう。しかし、法律によって権利が保障されていようが、法律が変わってしまえばだめ。憲法改正の法案が通ったり、外国が侵略してきてしまったら終わり。それより文化文明論的に考える必要があるんじゃないか。それが知識人、大学教授、ジャーナリストの仕事。今からに十年ほど前ヘアヌードという言葉が出てきて、憲法一五七条に違反するのではないのかという議論があった。私はヘア解禁がおかしいと言っていた。いつ日本においてヘアが禁止されたのか。禁止されたのは陰毛etc。恥毛とかをはばかる気持ちがある、性的羞恥心があるのに、人間にはヘアがあって見せないのはおかしいという議論をしていた、それがおかしいと私は言っていた。ヘアの欺瞞性についてずっと言っていた。そのうち私の言っていることも一利あると認知されて、井上章一さんという、文化史風俗史に視点を変えた「性の用語集」で私を引用して欺瞞的であると言ってくれました。つまり、人間の中には性的羞恥心がある。恥ずかしくないからすべて公開していいんだ、というのは間違っているということが認知されてきた。
寺山修司という劇作家がこんなことを言ってます。「良識」にのっかった性表現議論。日本は性表現の後進国であって、性毛が生えたら娘の成長過程を記録できなくなる。性毛が生えた年になって父親が写真に撮っているのは異常な国じゃないか。父親が裸を取るのはせいぜい三年くらいですね。陰毛が生える年になってまで娘の裸を写真にとるような父親がいたら変態だ。こんな水準では仮にこちらの意見が通ったとしてもいずれ問題が起きる。言論の自由は、良い言論が出てくるようにという話だ。しかしその通りとは限らない。良くない言論の権利はどうなるんだ、はあまり考えていない。表現規制は性表現と、差別表現規制。これはいずれ法律レベルで議論が起きてくる。ヘイトクライム。民族的嫌悪の表現をすると犯罪になる、欧米で行われている。日本がどう考え、どう受けれるかが迫ってくる。現実問題として、イスラエルにおいてはベニスの商人が上映できません。ユダヤ人がえげつない人間として描かれているから。イギリスにもユダヤ人がいます。でもイギリスでは公演できる。何を根拠に許されているのか。日本では議論さえされていない。「偉大な文学者」がユダヤ人の人権を無視した作品を書いている。ドイツではナチスを思わせる印、ナチス文書が禁止されている。ドイツでナチス研究する人は英語、フランス語による「わが闘争」を読まざるを得ない。日本でもこのようなことが起きないとはいえない。つまり、人権を否定する文献、表現がいけないということを人権の名において訴える、人権の名において解禁しろと言えるのか。表現の自由は良い言論を認めさせろと言うことになっているが、そうではないものはどうなるのか。法律に記載されているか否ではなく、文化文明論が必要だと考えています。
古いところでは荻生徂徠。江戸中期の知識人。講師の論語について注釈した本。平凡社東洋文庫朱子がどう考えてるかというと、社会倫理でなくては教えとすることはできない。義理を離れて朱子は、詩というものを知らない人間である。書経という者は政権の格言である。いにしえの成人達の格言。しかし、詩経というのはそのものではない。その言葉を持って教えとすべきものではない。しかれども人情を尽くすのは詩経である。義理を離れて…義理=社会規範。書=書経=政治倫理書。詩=詩経。人情=人間の心情。丸山真男が言う政治と芸術が分離した転換期、テリトリーが違うんだ。これと同じ事言っているのが本居宣長荻生徂徠からヒントを得たんだと思いますが、排蘆小船という本があります。つまり、質問者は和歌、俳句は世の中をよくする社会倫理であって、娯楽ではないんですねと質問した。非なり。本居宣長は違うという。歌の本体、本質は政治を助けるためでもないし、身を修めるものでもない。只心に思ったことを言うより他になし。そのうちには結果的に政治の助けとなる歌も、自身の戒めとなるものも。逆に国家の害、実の災いになる歌もある。悪いことも良いことも当然あるだろう。そこのところが分からないと、歌はわからない。これらは近代的法律背景が成立する前の話である。これが近代を準備したというのが丸山先生の主張の要。明治になると坪内逍遙小説神髄。ここにおいても同じようなことが言われている。ただし、フェノロサの影響がある。26歳にして現在の議論の大枠が出尽くしている。小説の主眼というところ。小説の首脳は人情なり。人間の心の中に波打っている感情が小説の本体である。これを善悪として判断すると〜。ハムレットに出てくるガートルードを批評しろという問題に対して坪内逍遙は、彼女は不倫して旦那の毒殺をゆるした。姦通する女は許さないと書いた。それは当然だから…。文学の中に、悪い女が魅力的に描かれている例があるじゃないか。皆さん良い物を何故弾圧するんだとおっしゃいますが、悪いものは弾圧してよいのか。
最終的には法体系の中で最終的な決着点、ゾーニングを見つけなくてはならない。具体的なことに対しては山口さんが色々詳しいお話があると思いますが、私としてはゾーニングで妥協点を見いだすしかないと思っている。良い表現を禁止するなというのは当然だ。表現には悪いものもある。これを弾圧してよいのか。文化論文明論としては昔から議論があるのだ、その程度のことも我々は知っておいてよいのではないか。

(司会)大学生が授業でこれを受けてどのような反応が?

呉智英先生)学生は本居宣長とか読めません。名前を知らない学生もたくさんいます。たいていみんな驚きますね。特に本居宣長のいいところは、現代語で読んでも衝撃的、「国家の害ともなるべし、身の災いともなるべし」詠んだらその人を滅ぼすような和歌だってあるんだよ。言論の自由は良い物についてあるものだと思っていたけれども、悪いものもあるじゃないか。悪いものをどう考えるかというきっかけになるので衝撃を与える。
(司会)ヘアの話もありましたが、議論の質は一部上がってきているけど総体としては変わらないという考えですか。

呉智英先生)性の議論というものは、戦後解放の方向に向かっている。多数派がみたいと言っている、それに迎合してお上がじわじわと許している状況があるから。このうち滑稽なもので言いますとチャタレイ夫人の恋人。猥褻文書とされ、裁判となり、罰金を払うことになった。この伊藤整が翻訳したチャタレイは簡訳版。詳しくない。完全版の方が露骨なんだけどとおっちゃった。ならば伊藤整が出てもいいと思うのだけど、一度猥褻文書とされているので出版できない。警察は一度猥褻とされたものは猥褻文書として扱う。もう一度裁判したら観られるようになるだろうが、伊藤整としてはもう一度裁判するのも。なし崩しに拡大されているのがよくない。感情論で、体にあるヘアを何故かくすんだ、といいながら口からは陰毛という言葉を隠す。

「マンガ表現規制問題の根源を問う」山口弁護士

(司会)一度法律として決まったものは、なくすには労力がかかり難しい。これから山口さんに、今回の動き、周辺を含め問題提起、状況整理をしてもらいます。

(山口弁護士)

呉先生の講義の後に私の話はつまらないかな。呉さんの話は参加者というより私に十字砲火を受けるようなものですがどこまでボールを投げ返せるか。政治集会ではないとは言われましたが、基本的には条例改正案に賛成だという集会ではないので否決の歴史的位置づけについて。
都条例の否決はEBP(根拠に基づく政策)という観点からも重要。地方自治体による根回しと説得を理性的な議論が乗り越えたという意味で非常に画期的な出来事。具体的な根拠に基づいて税金使ってもらわないと、子どもに役に立つことと、子どもに役に立つと思えることに対しては大きな差があるわけで。東京都にとっては向こうずねにけりを入れられた程度で戦いは続いてゆく。
現在の情勢。都は再提出を諦めていない。細かいことで字句修正。非実在青少年は消える。非実在青少年を考えた人はとても頭がよい人で、とても助けられたと思っている。1.東京都青少年問題協議会に対する改めて諮問を行っていない。2.質問回答集がHPから消えていない=まだまだ使えると思っている。
ここで一つ補足説明。大阪、京都でも同じ議論がされている。東京都は青少年問題協議会で議論。大阪府は青少年健全育成審議会。両者は全く似て非なるもの。青少年問題協議会の設置根拠は条例ではなく法律。青少年に関する施策に答える機関となっているが、知事が自由にメンバーを決められる。青少年健全育成審議会は行例に基づいているが、知事が任命権を持っているが業界団体の枠などが決まっている。なぜか東京都の青少年健全育成審議会は不健全図書に判断するか否かを判断する機関になっている。大阪では青少年健全育成審議会のため割とバランスの取れた議論になっている。
都条例の経緯。国会レベルの立法で導入できない規制を条例レベルで導入。児童ポルノ法改正(単純所持、創作物規制を前提とした調査研究)は民主党が慎重なスタンスを取っているため当分通りません。なら各自治体ごとに条例を作ってしまえばいいじゃないか。青少年健全育成基本法ができないから健全育成条例を作ったのと同じ仕組み。この国の公権力が昔から使ってきたテクニック。「青少年が安全に安心してインターネットを利用できる環境の整備などに関する法律」(総務省主導)VS警察主導の法案の対立で、総務省が勝った。警察として巻き返しを図りたい。その一つが単純所持、インターネットにおける児童ポルノブロッキングブロッキングについても総務省VS警察主導。通信の秘密があるからあくまで緊急避難という議論(総務省)。総務省と警察の対立が東京都にもちこまれている。東京都は便利な場所で、豊かな自治体で交付金もらってない=東京都に対して総務省の発言権がない。子どもを守るんだという大義名分の下で権力拡大を狙って失敗したが、諦めていない。
都条例の問題点とは。(サイゾー本に書いているけど本が出た翌日に否決されたためサイゾー本が山口事務所に段ボール箱ごと残っているんですよ。)自主規制の範囲が拡大。平たく言えば、18歳未満に見えるキャラクターのベッドシーンが入っているものが全部成年マークをつける。単なる自主規制という考えもあるだろうが、ルールというものは作った瞬間に守らない奴どうするの?となる。自主規制に従わなければ罰則作りましょうという議論になることは目に見えている。実際には強制力を半ば持つと言って良い。もう一つは自主規制の履行について青少年性的主体描写物(18歳未満における〜を含む)について蔓延を防止しようとしている。蔓延防止のための市民、団体の運動を東京都が支援する。まん延という言葉は伝染病予防法、検疫法に出てくる。要するに完成市民運動を東京都がバックアップする。自主規制に従わない出版社、書店は平たく言うといじめますよと。東京都は手を汚さない。そのことで、市民によって市民の表現を弾圧することで事実上。質問回答集の法的拘束力は全く無い。その程度のものだが、内容と条文がミスマッチ。東京都は一貫してミスリーディングを誘っている。東京都は18歳未満のキャラクターに対するレイプなど悪質な性行為において性的好奇心を〜な漫画について限定してといっているが、実際は違う。実際には18歳未満にみえるレイプシーンがあってしまえば、強制力を持つ自主規制の対象となってしまう。
もともと青少年健全育成条例があったにもかかわらず日本のマンガ文化は栄えてきた。だから大丈夫じゃないですかという意見もあるが。18歳以上の趣味/嗜好に付いてまで公権力が否定的な評価を加え、これを追放しようとしている。はっきりいって、どういうことかというと、健全育成条例に基づく規制は合憲と下されています。東京都も合憲であると説明しているが、明らかに従来の不健全と諸制度の範疇を逸脱している。蔓延の防止という言葉、つまりそういうものにオトナがアクセスすることについてもよくないことだということに踏み込んでいる。青少年健全育成条例はあくまで18歳未満には早すぎるでしょということ。まだ未熟なんだから観る権利についてもはやいからと余計なお節介をする。18歳以上のものについて制約してはいけない。ところが今回の改正案は18歳未満のベッドシーンを含む作品を18歳以上が消費することに否定的な評価をする。最高裁の判断の大前提、オトナは自由に観れるから良いでしょというものとは違う。
表現の自由とは何か。一から考え直してみることが重要。憲法二一条第一項。表現の自由の重要性。1.表現活動を通じて次項の人格を形成する。2.政治的意志決定に関与していくという民主制に不可欠なこと。表現の自由憲法が保障した趣旨。憲法第二一条には法律の留保がない。大日本帝国憲法二九条=法律の範囲内のおいて。ある意味画期的である意味危険。議会の決定がない限りは表現の自由を侵害してはいかんよ、というのは画期的である一方、法律作って規制できるのは危険。憲法二一条は法律をもってしても制約し得ない権利を保障している。多数者のものではなく、少数者のためにこそ存在する。法律は多数意志を持って成立する以上、多数者の表現を侵害するはずがない。多数決の論理から保護されないものを保護するもの。規制を求める民意の存在は、表現の自由を制約する根拠とはならない。憲法上の人権というのはそんなものですけどね。法律を持ってしてもこれをやってはならんというのが憲法上の人権。
呉先生に対して。「法律の留保」が認められなかった理由。多数決原理の本質=暫定的な正当性に過ぎない。何が正しいか分からないから。何が正しいか分かっていれば多数決なんてする必要ない。客観的なことについては多数決しない。議論を尽くして考えて意見をいいあって、それでも多くの人が特定の結論を支持するのであればたぶん正しいものだろう。多数決原理の本質=暫定的な正当性に過ぎない。呉先生からは悪いものについて何故保護されてなくてはならないかという私の答えは、何が良いか悪いかはわからないという答え。価値観、評価は所詮移ろうもの。特定の表現についていろいろな見方がある。ホメオパシーについて批判的な観点から興味を持っている。はだしのゲン、気持ちの悪い文章もある一方で、特攻の拷問シーンもある。友情や人間の見にくい側面であったり。どの面を捉えて良い悪いとするのか分からない。サディスティックな面を持っている人がおお、こう人を痛めつければいいのかと考えることもできるし、こんなことやっちゃいけないという人もいる。時代とともに評価は変わる。それを当時の多数派の意志で固定していいのだろうか。つまり、「国民」を考えたときに今の国民だけでよいのか、未来の国民を考えなくて良いのか。ある表現について良い悪いと議論できるのは、過去の人がその表現を残してくれたから。将来の国民の表現の自由をどう考えるべきか。東京都の条例は日本におけるエログロナンセンスの部分は衰退し、後の世代はそういうものがあったことを知らなくなるかもしれない。先ほど多数決原理に議論が必要と言いましたが、多数派は少数派が多数派になる道を封じてはならないと思う。そのチャンネルを閉ざしてしまうことは多数決原理の内在的制約として許されないのではないか。消費税を5%から10%にする、いいじゃないですか。18歳に見える性行為をやっちゃいかんとなったとたん、そういう規制おかしいんじゃないかと負けた少数派がリターンマッチを挑むことが不可能になる。表現の自由は傷つくと回復しがたい人権である以上、法律の留保という安易なもので規制してはならないと考えています。
表現の自由に対する制約は許されないのか?そんなことはない。公共の福祉による最低限の制約には服する。人権と人権が衝突する際の調整原理として制約されることは当然だと思う。自分の腕を振り回す権利は相手の顔に当たった瞬間に終わる。ヘイトスピーチについては、人権はあくまで個々の人間、集団ではなく個々に限定すべきだと思います。18歳未満に思えるキャラクターが強姦されるものが総体としての女性・子どもの人権を侵害するんだというのは公共の福祉ではない。何々民族の尊厳といった規制は私は反対。特定の人間に対して侮辱罪等はあるが、特定の人を名指ししないものに対しては人権と人権の衝突の概念に含まれないので許されないと思っている。子供を産めない女性云々で石原知事が訴えられた事件の判決は正しいと思っている。あの発言がよいとは思わないが、法的な問題に問うことは許さない。特定の人に対して言ったのであれば損害賠償となるが、集団の属性においてもやるとなるとおかしいことになる。幸福の科学というグループを批判することで私が教団を傷つけられたとして各地で裁判を起こされた。こういうことを認めてしまうと安易に表現の自由が制約されてしまうと同時に、人権とは個々人の自己決定権。女性としての自己決定権があるとなると、その自己決定権は誰が決めるのか。当然その中で色々な意見があるわけですよ。そうなってくるとこういうものは女性の尊厳を害するんだと言ってしまうと、女性の中で異論を持つグループの意見を封鎖してしまう。表現の自由という事件に反すると思います。ヘイトスピーチに対する規制も正当化できないと思っている。同時に何々の差別を助長するも規制の根拠とできないと思っている。集団に対して言われた際は集団の中で受け止め方が違う以上、女性はすべからく侮辱されたと思わなければならないといっていることであって、思想統制以外の何者でもない、それを表現の自由から導き出すことは根本的に間違っている。抽象的な安全論からの表現の自由の規制派認められないと思います。規制を推進する側に根拠を説明する義務がある。一体何が対立する人権なのか。子ども全体として、女性全体として脅かされるという言い方をするが、それは個々の団体に入っている人間はすべからくそう考えると押しつけることであって、自分の意志を持つという人権に反するものだと思います。
規制する方法として二つが考えられる。直接規制。児童ポルノ法、わいせつ罪。児童ポルノ法の対立人権は子どものプライバシー、自己決定権。直接規制の問題点は、市民から公権力による表現規制の正当性を吟味する機会を一切奪う。児童ポルノを摘発しましたと言っても、どんな画像だったか全く分からない。ここまで規制していいのかといった議論ができない。175条は性道徳。最小限の性道徳を維持するための立法は今のところされていない。175条については書くことは禁止されない。特定少数人の間の譲渡は許されている。検証の余地はある。松文館裁判で蜜室を宮台先生などに渡して相談することはできたが、児童ポルノではこれができない。確かに児童ポルノではやむを得ないんでしょうけど、一度認めることは権力に完全なフリーハンドを許すということ。それほどのものであるかということを考える必要がある。宮澤りえのサンタフェが該当するとして、それを厳密に規制する必要があるかどうか考えるべきとは思っている。間接規制の例はゾーニング。売っちゃいかんとはいわんがTOPをわきまえなさい。これは前の直接規制に比べて緩やかに認められると考えている。不健全図書は成年が購入できるから議論ができる。ただ同時に霞をくって生きているわけではないから、間接規制も市場形成を不可能にするほどになると表現の自由が成立できなくなるため、事実上購入規制になる。間接規制を導入する場合もより緩やかな方法で規制目的を達成できないか検証する必要がある。
表現の自由に対する規制の正当性を考える場合の視点。1.立法目的の重要性・正当性2.立法目的手段(規制)が立法目的達成との関係で合理的と言えるか。3.規制が明確であるか。たとえば3号ポルノは主観的要件が入っているし、年齢を写真で判断するのは難しい。4.規制が必要最小限度であるといえるか。(間接規制の場合)5.対立する人権が侵害される現実的な危険性があるか(直接規制の場合)児童ポルノであればそうでしょう。
この視点から青少年健全育成条例を考えていく場合、立法事実があるかどうかわからない。合憲とはしているが、2の合理性、3の明確性に欠けている部分がある。改正案は規制を強化する必要性、規制強化と立法目的の達成に関する議論が必要なはず。明確性がない。しずかちゃん云々〜というが、そういった誤解を招く条文は曖昧だ。回答集を作らなくちゃいけないほど曖昧、明確性を欠く。
強力効果論への反論。体験談的な根拠しかない。健康食品と同じ。こんなものならべても根拠にならない。観てるけど何もしない人がどれだけいるか。責任転嫁の材料とされる可能性が高いけど、1万本のゲームソフト売られて9998人何もしなければ無害と考えるのが普通。
今後のゾーニングのあり方に対する私見。青少年の健全育成という観点でなく、性表現など暴力表現を不意打ちしないようにという観点で。ある種のサインを示すというのがゾーニングであって、なくすこと(子どもが手に取らないように)ではない。

(司会)原理的に詰めてこられたと思いますが、山口さんの考えは多数派なのですか。

(山口弁護士)詰めた議論をしてるということですが、法律家が忘れているだけだと思う。僕がしている議論は昔の司法試験を受験している人はこういったことを思いつくよねという原理的なものであって、話して分からない人はあまりいない。そんな難しい議論をしているんじゃなくて、定番となる憲法の教科書を読んでいけばこれくらいのことは自ずから導き出されると思います。司法試験でやったことでも使わないことは使ってないから忘れしまっていることが多いけど、僕はこの分野について粘着質に取り組んでいるので覚えています。

「マンガ表現規制問題の根源を問う」質疑応答

(司会)文化文明論と法律論の相性がよいと考えているのではなく、バランスであったり、知識人と認められる人には考えてもらいたい。両者を見渡すことが実効的なアプローチになるだろう。頭がすっきりと言うより、どう考えれば良いんだろうという人も多いと思います。ここからは質疑応答。深く考えてもありがたいですが、率直にわからなかった・聞きたいことがあれば。できるだけ多くの方からご意見頂ければ。

(大阪の弁護士、小崎氏)私どもが考えることとは別の視点から役に立ったなあと思います。山口先生は同業なもんですので久しぶりに先生から講義を受けさせていただいて司法試験をやっていた頃を思い出した次第で原理原則からわかりやすかった。呉先生のお話では結局悪い言論についてどうするのかという問題だったと思います。そこの基準はどうなるのかという問題はあるにしても、そういう区分けによって悪い言論を排除してゆくということにならないために悪い言論を一定限度排除せざるをえないという流れになると思いますが条例改正案について先生が反対されるのは何故か。山口先生に対しては原理原則論としてはよくわかるが一般に青少年を保護する視点から制約があるという際に、必ず制約しようとする立場はこういうものを見せるとその影響で犯罪に巻き込まれたり引き起こす奴が一定いる、統計的に少ないかは別にしている、それを防ぐためにやっているのに何故いかんのかという反論があった場合に原理原則論から詰めていくことが説得的に展開できるのか。

呉智英先生)基本的に悪い表現があったおしても、すべて出してよし。例として報道規制があります。報道規制が引かれれまして、政府がこれ報道するなというと仕方ないとなる。これは一種のゾーニングで実は知っているわけです。すべての取材が禁止されているわけではない。この場合は多くの人が賛成できて記者の意志が侵害されない。性表現を含む場合には全部OKでそのなかで山口さんからも意見ありましたが接触で考えるかというと実務的なのでゾーニングだろうと。問題になる漫画を考えた場合コミックマーケットなどで出てくる自称パロディ。こんなものに積極的に認める価値があるとは思えない。だからといって弾圧することは避けたいと思うし中には広い底辺があるからこそという議論があるけどこれにも私は賛成できない。あんなくずが、まあ好きな人もいるから許しても良いだろう。漫画学会会長としてすべての漫画が素晴らしいとは考えていない。

(山口弁護士)影響を受けて犯罪に走るという事実が本当にあるのかな。多かれ少なかれ人間は責任転嫁する。そういうものは体験談の域を出ないし、数がまとまらなければ。細かいところに目をやっていくと全体像見えなくなるが、日本はコンビニ行くと誰でもエロ本変えるかもしれないけど、夜遅くでも安全に外出してで歩ける国。イタリアは夜遅く歩くのは子どもでも怖い。イタリアがゾーニングされている国かというと微妙ですが。実態として日本は安全。少なくともそういうものによって、その子達はそういうものがなければそういったことになっていないのか。曖昧な根拠で規制するのはよくないし、学校や親の教育しつけの対応で、表現規制でも対応。どんな社会でも非行が0とはありえないので適当な原因としてこういうのがありそうだというのは乱暴かなと思っています。

呉智英先生先生)微妙に違うところもありまして、影響論も前から考えている。影響は明らかにある。何かをきっかけにして、暴力的な行動に走るとか厳然としてあると思っている。山口さんのおしゃったように公判に出てきてこの漫画が悪いんだ、言い訳で言っていると思うけど、(影響が)ないわけでない。定性的なものと定量的なものがある。社会は定量的なものしか規制できない。被害者の立場に立ってみればこれがあるから、哲学倫理と法律の境目にある問題。法律は定性的なものを相手にできない。その境に出てくるときにこういう議論、難しいことが出てくる。行政は社会に対して関与してくるんですけど、社会の潮流をプッシュする関与と押さえる関与の二種類。文教政策はこれをやると良い子供が増えるよというのを積極的にプッシュする。AとBがあるときにAをとる、このときBを排除することは許容されることが多い。それは行政の裁量であって、私がBを取っていればBがいいと言うけれどもAをごり押しされても強い反対はできない。ところがBは駄目だBを抑圧しようというときは反対せざるをえない。簡単に言えば、こういう漫画は言う漫画だよということで図書館に入れる、排除されている漫画はどうするんだと言うには言いますが強くは言いにくい。

(山口弁護士)表現物が人に影響を催さないとは言ってない。どういう影響を受けるかは人により様々であるわけで、特定の人がある影響を受けたからと言って、そういうものだと決めることはそう感じない人を決めつける。法律で規制することは我慢することであり、説明責任が必要。その人が漫画を読んだことで仮に事件を起こしたことで、社会の対応として漫画を規制するのか、その二人に更正教育するかいくつもの方策がある。

(笑いの内閣総裁、高野)良い表現悪い表現があって、不快に思う人が多い表現に対するゾーニング、うちの劇団もいろいろなジャンルの芝居をしていて、ある意味ゾーニング、多くの人を集めるときは無難なネタをしたりしているときに、その場で笑いが取れないと意味がないのでTPOに合わせた表現をしているけれども、こんなきわどいネタをしているのはどうなんだと言われることがある。ビラに書いてくるから見に来るんじゃねえよと思うけれども。きっちりゾーニング、危ないですよというふうにやっているところまで存在していること自体がやだという人にはどのように対抗していけばいいのかな。あと、山口さんに関して、科学的根拠、明確な根拠があるんですけどこれも理論的に説明しても通用しないということってあると思うんです。山口さんのblogとか読ませて頂いてホメオパシーとか、明確な根拠なんかないんだよと言っても友達に「でもそうだもん、私の周りの人はそうだもん」といわれるとデータ出しても駄目ならどう反論すればいいのかと。僕、うちの劇団、この表現規制を取り上げた演劇を上演したけれども、演劇をやっている人間でもこの問題を知らないとか、バーのお客様でも知らない。盛り上がっているようでいて世の中に知られていない。あそこに(マンガミュージアムの展示ブース?をさして)お客様がいるのにここに入ってくる人が少ないのは残念だなと思っています。

呉智英先生)最後の問題から言うと、人口の99%は愚民だからしょうがない。ゾーニングうんぬんは言論人としてここではこの程度というものが、当然あるわけですね。TVでも録画だと切られちゃうから無難なことしかいわない。地元のニュースで朝のコメンテーターやっていたこともあるが、朝から濃い話やってもしかたないじゃないですか。無難な話で「いや〜やっぱり気をつけなきゃなりませんね」としか言えないでしょう。あなたがおっしゃったように濃い人がいるときは言うことは言うけれども、濃い人が多いと思ったら間違っていたすべりになるわけですね。それは演者の自己責任。血液型云々も法哲学は法規則でできているわけですね。ところが法律は社会の心理の反映でなくて、そういった法理が出てきたのは私も一次試験だけ受かって二次試験通った口なんで思い出したりしてたんですが、法哲学もいろんな流派があって、私は新カント派の論理。そこから漏れるものが出てくる。権力は法律以前に成立している。それが憲法を作り、刑法なり民法なり作っている。法哲学上の大きな対立でカール・シュミットと人生法学(???)の。法だけから言えば、99%が愚民がいるからしょうがない。法律が非常に合理的に作られていると思います。

(山口弁護士)理論的に訴えても通用しない人は相手にしない。スタンス的にはそうです。言って、分かる。僕がやってる法理的な発想になってしまうけども99%は興味がないと言いますけど、だったらそういう人をこちらに取り込んだ方が99%を少しでも取り込む努力したほうが遙かに効率的。僕のメッセージは規制推進はだけでなく中立派をどのように取り込むか。ホメオパシーを信じる人に届いてくれたらいいですが、ホモやっている人は歪んだエリート意識持っていてなかなか自分が間違っていると認められない。信者になりかかっている人には届くかもしれない。将来的な拡散は止まり、それで十分と思っている。なぜなら人間は死ぬからですね。そういった集団が高齢化、衰弱化すれば。僕は新しい規制推進派が増えないようにすることを考えています。そういう戦略が基本的。反対側に行っている人を説得することは、労力的に観て99%の無関心な人を1%でも2%でも取り込む

呉智英先生)ホモやっている人はホモやっていればいずれ死に絶えますよ。山口さん鋭いこと言ってまして、ホモに存在かけるのは一種の社会的ルサンチマンが多いのですが。小木津良一さんみたいな超エリートがホモをやっているのがまた現代社会の病理。本当のエリートが現在の医学の中で人を救えないという現実に合うときにホモにはまってゆく、それは非常に説得力あるんですね。現代の知の有り様を根本的に考えないと、小木津さん馬鹿なんじゃないのと言えるのか。学歴悪いけどあなた馬鹿でしょ。学歴とか頭いいとかは何なのか。ただしその説得ということに対してはその通りで、銀が出るとこ掘った方がいいと思いますね。

(山口弁護士)知性とは何か、僕は教養と。過去の営み、過去の知的営みの延長線上に自分を位置づけるっていう考え方がないとああいう考え方にはまってしまうと思う。ホメオパシーについて異端説を抑圧するのはよくないじゃないかと言ってるけど、勝負は19世紀の終わりについている。それが、みんなが忘れた頃に僕らが負けたこと覚えてないよねということで出てきているから、当時ホメオパシーについてどういう議論が行われたか、歴史の物差しの上に自分を置いてみれば。僕がホメオパシーに関わっているのは僕がカルトに関わっているから。東大卒とか、とても頭良いのにカルトに入っている。自分の体験というのを絶対視して、騙された人多く観てるけど彼らは自分は騙されないと思っている。騙されると思って騙される人はいない。自分の、自分がそう思いつくのは初めてなのかな、自分が思う悩みは他の人も悩んでいるんじゃないかなと考えることが重要だと思う。人類史上その悩みを抱えたのが初であるということはありえない、過去にどう考えたかというと。過去のこと知らなくても学歴エリートになれる。何千年という人間の営みの上に、切磋琢磨した成果物、その課程がある。その中に自分が体験してないものを振り返る姿勢が必要。「愚か者は経験から学び、賢者は歴史から学ぶ」知性が高い人と学歴が高い人は違う。

(司会)周期を迎えては同じような議論を繰り返し、ということがありますが

(山口弁護士)興味深いと思っていて、人間ってほら記憶を外部装置化しない。攻殻機動隊の世界面白いと思うけど、忘れちゃうんですよね。今言っているような議論って石ノ森章太郎さんが言った議論と変わらない。けど、今回やった記録はネットに残っている。そういう風な形で僕らのやった戦い、知的営みの記録が残っているという状況において再度繰り返せるかどうか興味深く思っています。

(司会)五年後、十年後に違った側面を見いだすかもしれないですね。

(文化ブログの主催、阿部氏?)うまくまとまってないんですけど、ある部分でこの問題は上に立った正義をかざす人が一般の多様性を弾圧するようなことが行われているように思えて、そういうこと、この多様性の時代で「大きな物語」が崩壊したあとにそれぞれの小さな物語で生きていく時代にそういったものを規制することは間違っていると思うけれども、そういうことが起こりうる。はっきり言って民主主義の問題が本質的な問題になってくると思う。僕らが欲望と、うまく言えませんけど、律していけば上の人から規制されなくても自分でやっていけれるのであれば上から拘束みたいな感じで上の人から指図される必要もないと思うんですけど、いつまでもそういうことを繰り返している状況、呉先生の99%愚民だということになるんでしょうけど、愚民を変えて行くには具体的にどうすれば。

呉智英先生)愚民は変わらないから愚民なんですよ。愚民は一定パーセントいて、蟻さんを観察していると働く蟻と働かない蟻が一定割合いる。アメリカは狂信者と借金まみれの人間が逃げ込んだ国。ところがそこが狂信者の国になるかというと何年か経つと変わってくる。質量保存の法則じゃないけれど、愚民量保存の法則があるわけですね。法律ではどうしようもできない。法姿勢とは全く違ったところにいる。独裁に倫理的問題はまったくない。政治の巧拙、民主制でうまくいっている場合とうまくいってない場合、独裁制でうまくいっている場合はうまくいってない場合。開発独裁は犠牲が最小で済むという議論、共産主義はある意味開発独裁という議論もある。世襲制の独裁なのか、強制による独裁なのか、議論は尽きない。それと文化の問題も別にあるわけで、山口さんのおっしゃった問題と絡めていると、組織人や文化は変わるかどうかわからない。文化は相対的なんだけど、すべてがそうなのか。相対主義を徹底してゆくと、何の基準もなくなっていくんじゃないか。歴史の字句で考えることが必要である。どんな時代でもやっていけないことといいことはある。的を殺すなら身内を殺すのはどんな時代でも社会規範としてあった。敵国の女を強姦することは許される時代もあったが、身内の罪のない女を強姦することは許されていない。では身内の罪のない女を強姦する表現は、わたしはそれを許容する。表現を駄目とすると、人間の考察力が衰える。

(山口弁護士)愚民かどうかは相対的でなくテーマごとに決まる。表現の自由については違うかもしれないけど、財政については愚民かもしれない。一律に愚民というカテゴリーがあるかと言えるかというのが一つ。二つ目として、民主主義は暫定的な正しさしか保証しない以上、僕の考える民主主義も道具でしかない、この国で民主主義は徹底されてない。違憲立法審査制があるんじゃないですか、民主主義が絶対だという考えで国家システムはできていない。ある種独裁的な、法廷における裁判長の権利、15人の裁判官だけで国会の法律を覆して良いよ。ある種の局面において民主主義は暫定的な正しさである以上ちょっと待ったする必要がある。国民の自由、幸福を追求する権利を保障している、幸福になる権利でない。それには民主主義はいちばんいいだろうなという話でしかない。民意が暴走したときにおいて違憲立法審査。民主主義は道具でしかすぎない。たしかに開発独裁の法が効率的だが、一度持った権力は話したがらないし、独裁は外部からミスの是正ができない。隠す方向に行く。神様みたいな人がいるなら独裁でもいいんだろうけど、弱い人間に権力を持たせる独裁には躊躇せざるをえない。

(司会)山口さんが報告のなかで所詮価値観が時代で移ろうもの、呉さんはいくつかのやっていけないことは変わらない。ポストモダンを批判する際に真善美、何が美しいかは変わるけれどもそのものさしは変わらない、にしけんさんなんかはおっしゃっていましたけど、政治体制の問題なるとでかい話だと思いますが、それすら視野に入れながら話すことに意義があるんだろう

呉智英先生)さっきから根本的な議論になっている。根源的な議論があることに気づかないのが問題だと思っている。子どもには見せたくないけれども自分はみたいとみんな思っている。よく援助交際しているのが子どもに説教たれるのがいけないとある社会学者が言っている。自分は自分の子どもに援助交際させたくなくても他人の子ともに援助交際したい。それが当たり前じゃないか。セックスは素晴らしいものだ、人間は素晴らしい肉体を持っているんだから、とか本質的な議論隠す。性は気持ちいいものかもしれないが、素晴らしいものかは分からない。快楽と真善美は関係ない。心地よいことが正義とは限らない。一番気持ちよいのは覚醒剤に決まっている。人間やめたくなるほど気持ちいいんですよ。私やったことないけど。気持ちいいことが正義と勘違いする、以前はそういった議論はなかったんだけれどもこの100年くらい心地よいことが正義であるといった「時代によって移ろう価値観」が広まっている気がします。それが性表現の議論が深まっていけないところだと思います。

(山口弁護士)取材に来た記者にあなたは問題になるような本を読みました? 強姦したくなりましたか?いいえと答える。じゃあなんで規制しようとするんですというと黙る。いえ先生は大丈夫ですが…という発想はどこから出てくるか。そうなってきてしまうと、それはたまたまとなると、自分たちは違うという発想が根底に規制推進の議論があるような、ある意味高みに立ったような議論。児童ポルノをたくさん観ているのは規制推進派の人でしょ。そういう人が何か起こしているかというと起こしてない。

近畿大学学生)規制推進派は規制をすることによってどういったメリットがあるか。もう一つ、規制反対の署名活動したときに規制推進派からポルノを観たい奴に決まっている、という意見があって……


(山口弁護士)そのために藤本さんがいるんですよ。なるべく女性、PTA関係者を表に出すようにしました。意図的にやっているのでないが、対外的にどう見えるかコーディネートしないといけない。僕がやっているとコミケとかの関係があると言われるけど違うんですよ。主婦層とかPTA関係者、女性、婦女子に運動を拡大できたので向こうは女性蔑視とかいった論理が全く使えなくなった。警察云々ですが、規制推進派の人は警察に動かされているんじゃなくて、彼らは彼らなりの正義感、善意で動いている。間違った善意ではあるけれども彼らなりの正義感で動いていることは認めないといけない。気持ち悪いことはいいことの反対は気持ち悪いことは悪いこと、悪いことを規制することはいいこと、そのこと自体が報酬となりますからね。

呉智英先生)学生の方のおっしゃるその反対運動云々、反対運動に反対になるんですけど、日本では長い間議論されていなかった、社会防衛論の問題。戦前の国家体制がイデオロギッシュで、戦時体制で議論が出てきたとなっていた。社会防衛論を無視して人権問題を語ることはできない。主に革新系団体で社会防衛論いけないと思っているんですか、みんなここの警察のスパイが入っていたらつまみだすでしょ。あんなもんはファシズムが考えるものだと考えていると足をすくわれる。それを忘れていたのが十年前の拉致事件。あれもそれまで日本の国益を守るためにはスパイ法を、そのときは戦前と同じになると主張していたがために、崩れてしまう。社会防衛論に対してはきちんと考えた上に議論しなければならない。その一助にこういった議論は意味がある。

(司会)地方自治体による根回しを説得が乗り越えた、周期的に出てくる議論に対するネットの可能性。理性的な議論が今日の、愚民という話がありますが、大衆化社会の問題だと思いますが、ネットが持っている可能性が一方で、世論調査に代表されるように一週間で気分が変わってしまう。理性的な議論が取り込むことの一助になる一方ですぐ離れてしまったり、知事が替わることによって本質的に変わらないけれども別のメッセージで支持不支持が変わるとか、課題があれば聞かせて頂きたい。

(山口弁護士)向こう側にこっちに取り込んだ人が向こうに行くかもしれないというのはどちらが積極的な議論を構築するかという問題にすぎない。ある意味、一般、若い層においてどうすれば受け入れられるかなというロジックは組み立てているし、未来に豊かな議論を残したいという衝動をどうやって共有できるのかなと考えている。この問題は左右を超越して、僕の周りにはネトウヨみたいな人もいるし典型的な左翼みたいな人もいるし、容易に向こうにひっぱられるような言質を取られないように自分の言論をコーディネートすることは考えざるを得ない。結果として僕の言論の自由がない。大衆社会と言ってるけど、嘘つかなければある程度いけるし、集合知としてのネット(の議論)は分かってくれるんじゃないかな。嘘付かなくて、持っている情報をなるべくかみ砕いて伝える。山口前言っていることと違うじゃないかということはたぶんないと思う。一貫性のある立場を貫くしかないと思う。

呉智英先生)山口さんは非常にオルガナイザーとして優れたやり方をやっている。嘘をつかないということすら利用していくわけで、宣伝活動ですね。どのように自分達のイメージ力を高めるか。ネットのようにハードルの低い、その分誰でも参与できるメディア流通ができてくると流動的な社会ができてくる。政治の中枢にいる人たちもてんやわんやになる状況、移ろいやすい民意があらわになっている。山口さんのような優れたオルガナイザーが必要だけれど、法律はそのなかで流動的でない、そこが危険だということ。すべてが流動的であればまた考えられるのだけれど、流動的ななかで流動的でないものがある。そこが危険。せめてここに集まっている皆さんでも議論をして深めて頂きたい。

京都国際マンガミュージアム シンポジウム「マンガ表現規制問題の根源を問う」

一文字一句残さず書き残しているわけではないんで、まあ大体こういった話があった程度に捉えてください。