夢喰いメリーのテンポについて


夢喰いメリー2話を見る。
ああ、このアニメは本当に心地よい。
心地よいテンポだ。


夢喰いメリーのテンポとは何か?
それは、そもそも山内監督がなぜ「夢喰いメリー」を選んだのか
ということを想像することから始まる。


かつてインタビューで
「六感、あるいは七感、そこら辺をくすぐる」
と山内監督は言っていた。
それが監督のやりたいことだと。
アニメというのは基本的には視覚、加えて聴覚に訴えるものだが、
確かにそういった「五感以外の感覚」に
訴えるのに適していると思う。


この「五感以外の感覚」の表現、
そしてアニメというものの適しているもの。
視覚に主に訴えながらも、五感を超えるようなもの。
それが
「夢」
なのではないだろうか。
だから山内監督は「夢」を扱ったこの「夢喰いメリー
という原作の監督を引き受けたのではないか。
「夢」のアニメ化。


アニメと「夢」の関係は
例えば虚構と現実を押しだす押井作品
クラナド以降「夢」にハマった出崎統
あるいはボンズの作る映画には「胡蝶の夢」のモチーフが頻出する
など、様々な場面でその相性の良さを発揮している。


つまり、「夢喰いメリー」の目指す「テンポ」とは
まさに「夢」それも悪夢に近いような夢なのではないか。
それは決して軽快なテンポでも、
見ていて楽しくようなものではないことは、
「悪夢」を見たことがある人なら分かろう。


加えて、「夢喰いメリー」では現実が夢とつながっている。
上記したいわゆる「胡蝶の夢」的な世界観。
ともなれば
「現実世界」も悪夢と同様のテンポで進んでいく。
夢と現実とにはっきりした境界がないことは
OPと1話において「デイドリーム」という形で
宣言している。


さて、具体的なことを言えば、
山内監督の「アップ」の演出がまずこの「夢」演出に効いている。
山内監督のアップの多用に対して
「位置関係がわかりにくい」
「というか何がどうなってるのか分からない」
という感想を見る。
これはまさに山内監督の術中。


「夢」を思い出してほしい。
夢の中では自分が何処にいて、
どうなっているのか漠然としていることが多くはないだろうか?
もちろん、「夢」というものは人それぞれであり、
俺も他人を夢を見たことはない。
しかし、例えば
LSD」(覚せい剤ではなく、PSの名作ゲーム)という
ゲームなんかをやってみると、「夢」というものの大枠は
人類共通であるようだ。


「夢」なのだから、分かりにくくて当然。
というか、ハッキリとしている夢の方が珍しい。
それはアップやアオリ・俯瞰の使い方だけでなく、
「光や色」にも表れている。


2話で一番グッと来たのは






この光の変化だ。
ベランダでの光の変化と言えば、
同じく「夢」を扱った名作・劇場版クラナドを思い出す

男と女がベランダっていうのは、
確かに666さんの言うようにセックスを匂わせてるのかもしれないな。
夢とセックスというとフロイト大先生っぽいが。


そんなわけで、「夢喰いメリー」はとても心地よい。
高校生のころ、夜寝る前に30分だけ「LSD」をプレイしていた時の
心地よさに似ている。
あれはサントラも秀逸だし・・・
ああ、「夢喰いメリー」の音・BGMの話をしなかったな。
まあそれはまた今度。