「部分と全体」の歴史的展開

部分と全体の哲学: 歴史と現在松田毅編『部分と全体の哲学: 歴史と現在』(春秋社、2014)を読んでいるところ。メレオロジーを真っ向から扱った、ほぼ初の論集ということらしいけれど、基本的な位置づけとしては概説書という感じかもしれない。前半と後半に大きく分かれていて、前半は歴史的展開、後半は現代的な議論を扱う構成。さしあたり前半をざっと見てみた。えらく飛び飛びではあるものの(アリストテレス、トマス、ライプニッツ、そしてフッサールへと飛ぶ)、なるほど基本線となる部分はちゃんと浮かび上がってくる。まず茶谷直人「アリストテレスにおける「部分」と「全体」」は質料形相論における部分と全体の関係性を取り上げてみせる。『魂について』の心身問題に適用される質料形相論をめぐるデイヴィド・チャールズとヴィクター・キャストンの論を比較を通じて検討し、両者の対比を、アリストテレス自身が魂と身体の二元論と一元論との乗り越えを図っていたのではという見地に重ねてみせるという趣向。なかなか興味深い。続く加藤雅人「中世とトマス・アクィナス」は、トマスのテキストから全体と部分の関係性が論じられた箇所を網羅的に取り出して分類し、それぞれの区分に関連した問題(普遍概念など)に言及しながら整理している。普遍論争におけるトマスの立場は、普遍を知性における認識様態と捉える一方、それが言語の表示様態と事物の存在様態を媒介するものと考えられることから、いわば唯名論と実在論の中間だと規定されたりしている。実在論寄りという従来の解釈も見直しの時期にきているのかしら?

ヘルベルト・ブレーガー「ライプニッツ哲学における全体と部分」(稲岡大志訳)は、冒頭で少しばかり単純化された概括を行っている印象。全体が先行し部分を決定づけるとされていた中世の全体と部分の考え方に対して、近代以降は部分が先行し全体を構成するという話になる、というのが基調としてあり、それを四つの領域(数学的連続体、霊魂論、物体の構造、解析と総合の方法)に認め、ライプニッツがそれぞれにどういう立場を取っていたか検討するという内容なのだけれど、まずもってそれら四つのいずれも、思想史的にはもっと以前に遡れたりして複雑な様相を呈するのではないかと思われる。でもさしあたり面白いのは、ライプニッツがいわば過渡的に、同論考で中世・近代とそれぞれ括られた両方の考え方に立脚しているらしいこと。次の松田毅「フッサール現象学とメレオロジー」は、「契機」「断片」というフッサールの概念を現象学的メレオロジーとして位置づけるというもので、それがフッサールの現象学の要所要所に生きていることを示している。うーむ、やはり個人的には、これら四者の間の広大な間隙を埋めていくようなものが読みたいところだ(笑)。