ワンフレーズ聴けば、すぐに曲名が浮かんでくる。情感あふれる歌詞を書き続けた松本氏は、日本の歌謡曲史を大きく塗り替えた。数々の名曲に隠された背景と秘話を、松本氏が本誌に直接語った。
表彰は縁がないと思っていた
歌謡曲やポップスといった大衆の娯楽は、流行り廃りのペースが早くて、だいたい3ヵ月くらいのスパンで生まれては消えていくシステムだと僕は思っているんです。
でも、「はっぴいえんど」というバンドのドラムから本格的に作詞家の道へ歩みはじめたときに、僕は流行する曲でありながらある程度の期間、世の中に残るようなものを作りたいと考えていました。
作詞家生活は45年を超えて、いつの間に芽が出たのかわからないけれど、僕の作詞した曲を親が子に伝え、子が孫に伝えて、「家庭内継承」というのかな、そういうことが30年以上の期間を経て起こるようになってきた。大衆の娯楽が簡単には消えなくなってきたんです。
去年の秋に紫綬褒章をいただいたのは、なんというか自分でも予想していなかった出来事でした。
言い方は悪いけれど、僕は大きな組織をバックに持たず、芸能界とは適度な距離を保ちながら野武士のようにフラフラと音楽を作り続けてきた存在。紫綬褒章のような公の表彰には生涯縁なんてないと思っていたんです。
だから、太田裕美さんや薬師丸ひろ子さん、そして松田聖子さんといったたくさんのアーティストと楽曲たちが素の僕を何百倍も大きく見せてくれている、と感謝しているところです。
作詞家として、本格的に詞を提供するようになったのは、アグネス・チャンの『ポケットいっぱいの秘密』('74年)から。この曲には折句、いまでいう縦読みを仕込んでみたんです(1番の歌詞の最初の一文字を拾うと「アグネス」となる)。
これをやったらものすごく怒られるかもしれないと思ったから、バレないうちにやっちゃおうという、ちょっとしたイタズラ心だった。いまのインターネット世代は縦読みに慣れているから、すぐ気づいちゃうんだろうけど、当時は全然でした。
アグネスがこの曲を歌番組で歌って、街中で口ずさんでいる人を見かけるようになり、ヒットしたのは嬉しかったけれど、「やっぱりみんな気づかないな」って。「ポケットいっぱいの秘密の秘密」といったところだね(笑)。
僕は、作詞家でありながらプロデューサー的な役割を果たすことも多かった。それは、太田裕美から始まったことで、彼女は『雨だれ』('74年)でデビューするんだけれど、彼女を成功させるためにはそれまでの歌謡曲のシステム自体を変えなくちゃいけない、という思いがあったんです。
というのも、そのころは録音が即席で、僕が思い描くいい音楽はなかなか作れなかった。それである程度の予算や時間をかけられるよう、ディレクターを説得したんです。
はっぴいえんどのころから気難しいアーティスト気質の人たちと一緒にやってきたから、根回しはうまかった(笑)。