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『魔法少女まどか☆マギカ』についての2つの論点―「魔法少女の救済」と「まどかの自己犠牲」

はじめに

魔法少女まどか☆マギカ』の最終回について語る場合、次の2つの観点から考察できると思う。1点目として、本来ならば魔女になるはずだった魔法少女達は、まどかによる世界の改変によって魔女になることなく消滅できるようになったわけだけど、そういった「救済」の手法がどのような論理に基づいてなされているのか詳しく考える必要がある。2点目として、まどかが魔法少女達の「穢れ」を全て引き受けるという、究極の「自己犠牲」による問題の解決が果たして妥当なのかについて考えなければならない。前者については、私がずっと述べてきたように『Angel Beats!』における「成仏」と関連づけて論じることが出来る。後者については、最近何かと話題のマイケル・サンデルや、その他諸々の作品における「自己犠牲」の是非をめぐる問題提起と合わせて考えることが出来るだろう。

ところで、今回の記事は、以下でリンクを張っている記事と合わせて読まなければ、なかなか読み進めるのは難しい。そのため非常に読み辛い記事になってしまったことを、あらかじめお詫びしておく。

魔法少女の救済

以前は魔女に殺されるか魔女になるかという悲劇的な結末しかなかった魔法少女は、まどかによる世界改変の結果、安らかな気持ちのままこの世から消えてゆける存在となったわけだけど、これは『Angel Beats!』における「成仏」に近いものがある。しかしここで、こういった方法が果たして本当に「救済」に成り得るのか、という問題提起がなされる。

『まどマギ』における悲劇は以下の三層だ。

  • 魔女になるという悲劇
  • 奇跡の対価として魔法少女になるという悲劇
  • 日常的悲劇(列車事故に遭うとか、友だちと男を取り合うとか、親のやってる宗教がはやんなくて貧乏とか)

これらは「層」であって、下が存在するから上が存在する。つまりまどかが魔法少女となる対価として叶えた「すべての魔女を生まれる前に消し去りたい」という願いは、うわべに対応するものでしかない。
(「『魔法少女まどか☆マギカ』、その醜悪な結末」より引用)

上の引用した記事で言われていることは、要するに「魔女になるという悲劇」を無くす前に、「魔法少女になるという悲劇」を無くすべきだ、という話。その論理で行けば、最終回において魔法少女は魔女になることなく消滅するだけで、魔法少女が生み出されるという悲劇自体は変わってない、だからまどかによる救済は不完全だ、ということになる。同じような考察は『Angel Beats!』の最終回後にも出てきた。つまり、「成仏しても生前の不幸が無くなるわけでもないのに、何故それが救済だと言えるのか」みたいな、音無らの行為の正当性を問う意見みたいなのが出てきたわけだ。音無らの行為が何故「救済」につながるのかという問題は、実はAB!信者でも簡単には答えられない問題なんだけど、詳しいことは「ミメーシス(=再演劇)としての救済、Angel Beats!」などの記事を見ると良いだろう。

話をまどマギに戻すけど、とりあえず私が今考えてることは、まどかによる魔法少女の救済は終末医療の考え方に近い、ということ。魔法少女になる原因となった「日常的悲劇」と、魔法少女になったことによって生じた悲劇については、決して「なかったこと」にはならない。だけど、世を呪いながら魔女になるという最期だけは回避され、安らかな消滅(=成仏)が約束される。この良い意味で「終わり良ければ全て良し」的な考え方は、音無がユイを成仏させるときに用いた論理と同じだ(詳しいことは、私が以前書いた「神の居ない世界で人はいかにして救われるのか―『Angel Beats!』と「神の不在」「心の救済」について」という記事を見てもらえば良い)。要するに、まどかによる救済というのは、少女達の不幸を無かった事にするのではなく、安らかな最期を与えることなのだと言える。

私は以前に「突然性と奇跡について―『Angel Beats!』論から『魔法少女まどか☆マギカ』における救済の方法を探る」という記事の中で、「突然の悲劇に見舞われた魔法少女が救済されるのだとしたら、それもまた突然の奇跡によるしかない」みたいな事を書いたんだけど、その辺りの予測が正しかったのかどうかは疑問が残る。魔法少女にとって「奇跡」と言えるような大それたことがあったとは思えない(ユイが成仏する時の「俺が結婚してやんよ!」みたいな強烈なインパクトを、さやかが感じていたとは考えにくい)。まどかによって魔女になること以外の道が示されたこと自体は「奇跡」と言えるだろうけど。

AB!における救済の方法については、私も色々考えているんだけど、とりあえず「終末医療的な救済」と「突然の奇跡による救済」は分けて考えた方が良いと思う。ユイの救済の場合は、そのどちらの観点からも考察できるけど、魔法少女の救済の場合には、前者の傾向が強いかもしれない。いずれにしても、まどマギにおける救済の手法が「AB!的」だということは間違いない。

まどかの自己犠牲

魔法少女まどか☆マギカ』のもう一つの論点として、自己犠牲の問題が挙げられる。以下では、その点について述べてゆく。さて、もしマイケル・サンデルがまどマギを見たなら、

大勢の人の利益のために、少数の人の利益が損なわれるのは正しいのか? あるいは、地球の環境や未来のために、人類が犠牲になることは正しいのか? さらに論を進めて、宇宙全体の寿命を延ばすために、少女が犠牲になることは正しいのか?

みたいなことを言うだろう。で、このキュゥべえ的な究極の功利主義に対して、多くの視聴者は「ノー」を突きつけたわけだけど、その理由をサンデルの講義に出ていた学生風に言えば、

「人の権利や尊厳」と「全体の利益」とを同列に考えることが、そもそも間違いです。どんな理由であっても、人の権利や尊厳を奪うことは許されないので、キュゥべえのやっていることは間違っています。

みたいな感じになる。ここで問題となるのは、結局、最終回ではまどかが「犠牲」になっているということだ。キュゥべえ功利主義の非道さを散々見せてきたにも関わらず、結局最後はまどかが犠牲になった。あるいは、まどかのために戦い続けるほむらも。こういった「自己犠牲」による解決は、物語として望ましいのか、という問題提起が出てくる。

同じような自己犠牲に関する考察はすでに行っている。私が『とらドラ!』についての記事を書いた時に述べたのは、竜児という主人公は最後まで誰一人犠牲になることなく、皆が幸福になれる道を模索し続けた、ということだった。(「皆が幸せになることをあきらめないという選択―『とらドラ!』に見る「幸せ」の有り方」を参照)。しかし、まどマギの場合は、そう甘くはなく、最終的にはまどか・ほむらが犠牲になっている。この自己犠牲をどう見るべきだろうか。

結論から言えば、この作品ではこういった自己犠牲を肯定も否定もしていない。むしろ、犠牲をゼロにすることは出来なくても、せめてそういった犠牲の上に我々の幸福があるのだ、ということを皆が知っておくべきではないのか、というメッセージを見出すことが出来る。そういった意味で言えば、まどマギのメッセージは、『ダーウィンの悪夢』や『バナナと日本人』のそれに近い。幸福・豊かさ・希望といった綺麗な言葉の背後にある闇。誰かの犠牲の上に、他の誰かの幸福が成り立つという、歪んだ世界の構図。それを変えることは難しいけれど、まずはその事実を知ることから始めよう、というメッセージ。最後に出てきた

Don't forget.  
always, somewhere,
someone is fighting for you.
As long as you remember her,
you are not alone.

という言葉が、まさにそのことを示している。どこかで、誰かが、あなたのために戦っている――これは「犠牲になっている」と言い換えてもいいが、とにかくそういった歪んだ世界の構造を理解することが大切。まどマギの見て感じることは人それぞれだが、少なくとも私は、上記のようなメッセージを感じ取った。