土のつぶろぐ

土の粒々から世界を考える!(ある土壌科学者チームの挑戦)

研究者と論文#2(論文の数と質、若手の生き残り戦略)

論文のお話の続きです。

 

アメリカではPublish or perishと昔から言われているように、論文を出さない研究者は消える(職を得られない、職が維持できない)のがさだめで、日本でも(昔は違ったようですが)現在の任期付きの研究者が置かれている状況は同じです。点を取れないフォワードや、勝てない監督がクビになるのと同じですが、問題はスポーツと違い、研究の良し悪しの評価がものすごく難しい点です。昨年の記事(次世代の研究者を育てるには?)でも書いた、「評価」の問題です。

 

研究者を評価する一番単純な方法は、論文数です。例えば、今までに何報の論文を発表したか。しかし、世界には様々な学術誌があり、ネイチャー、サイエンス、PNAS等とっても競争率の高いものから、その反対のものまであります。よって、数さえあればよいという訳ではありません。

 

どの雑誌がよく読まれ、よく引用される論文を多く含むかを比較するためにインパクトファクター(IF)という指標があります。欧米では、IFがどの程度の雑誌に何報発表しているかという、質・量のかけ算で研究者を評価しているようです。当然、日本でも質・量の両方を評価すべきだと思うのですが、雇用審査の際には、基本的に「数」が重要視されるようです。少なくとも、最低ラインとして助教公募であれば何報はないと2次選考には進めないという話はよく耳にします。(この考え方は嫌いだし、良くないと思うのですが、話が逸れるので、また今度)

 

なぜ、最初に「数」だけで篩にかけるのか?理由として考えられるのは、

異なる専門分野の人達が応募できるポジションの場合(例.大学の生命・環境分野での公募)、分野によってそもそも専門誌のIFが異なる。

②IFが高い雑誌に発表された論文が必ずしも良い論文とは限らない。

③IFが高い雑誌に発表するような研究者は我が強く、協調性に欠け、問題を起こしやすいから、IFで重み付けをするのは良くない。

あたりでしょうか。

 

③は驚きですが、実際にどこかで聞いたことがあります。これも和を尊ぶ文化だから仕方ないのか!?②はそりゃそうだけど、他に「質」を測る方法が考案されない限りやむなし。①は確かに問題で、僕らのやっている土壌科学などの環境研究は、医学や生命科学または工学に比べ、研究者人口は当然少ないので、IFの高い専門学術誌も少ないはず。よって、不利になる可能性が高いと思います。先ずその前に、環境研究では論文を書くペースが遅いため(例.野外観測を基にすれば、先ず1年はかかる)、同年代の研究者でも論文数が少ないという問題があります。この専門分野間のギャップの問題(論文がどんどん出る分野を優遇すべきか?)は、難しい重要な問題なので、ひとまず置いておきます。

 

いずれにしても、論文数が少ないと良い研究をしていても大学や独法の研究ポジションに就くのは難しいのが現状なので、自分に近い分野のポスドクには、ある程度割り切って「数を稼ぐ戦術」も考えるほうがいいと言っています。職に就けなければ研究は続けられないので。ただし、当然ですが、この戦術だけに長けていても、一次選考は通過しても、二次選考・面接では太刀打ちできないだろうし、学問の進展にもあまり寄与しません。やはり、自分が大切だと思うテーマ、本質的なテーマを地道に研究することが大事で、面接ではそういう側面が重要視されるのではないかと思います。

 

論文数は少ないが、すごくインパクトのある研究をしていて、研究職を得られる場合もあります。個人的には、数よりも質であるべきだと思うのですが、それを目指すのは(特に日本では)リスクも大きいという事です。例えば、その時にホットでない(重要と見なされていない)研究分野だと見過ごされる可能性は高いし、インパクトのある研究を発表し続けるには、かなりの努力、能力、運や人的・金銭的なサポートなどが必要だからです。

 

つまり、論文数を稼ぐための軽い「ジャブ」のような論文と、数は少ないが深く掘り下げた「ヘビーパンチ」的な論文を、同時並行的に行うのが現実的な戦い方だろうと思います。「軽い」というと語弊があるかもしれないけれど、如何に素早く、絞ったテーマの論文を書くかというトレーニングと位置づければよいでしょう。研究を続けていれば、〆切に追われ、その技術が活きる局面はしばし出てくるので。

 

粒蔵の場合、理想・妄想主義的な傾向があるため、一発KOとは言わなくても、かなりインパクトのあるヘビーな論文を書こうとする傾向があります。幸運なことにパーマネントな研究職を得たので、そのスタイルでも良いのですが、実力が伴わないため、時間がかかり過ぎたり、データが溜まってしまったり、共同研究者に恩返しできない等の問題が出てきています。よって自分も、シャープでクイックなジャブ打ち論文を意識的に書くこと(それだけではないですが)を今年の目標の一つにしています。

 

長くなったので結論:

●論文の真の「評価」は、歴史にゆだねるしかないだろう。やるからには、10年後、30年後でも読まれ、引用されるような論文や、後の科学史家が学問分野の進展や社会問題の解決に寄与したと認めるような論文を書きたいが、それを現役でいる間に知ることは難しい。

●研究者の能力を評価するために使われている、学術誌のIFや論文数は、不完全な評価指標ではあるが、それ(特に、論文数)が重要な選考基準になっているのが今の現実。

●よって、定職を持たない研究者が日本で研究職を探す場合、(少なくとも僕の分野では)じっくり準備する質の高い論文と、割り切ってハイペースで書く論文の両方を書き続けるというスタイルが現実的だろう。