法華狼の日記

他名義は“ほっけ”等。主な話題は、アニメやネットや歴史認識の感想。ときどき著名人は敬称略。

東電の津波や地震の想定についてメモ

http://www.tokyo-np.co.jp/s/article/2011032390071412.html

 東日本大震災による大津波が発端となり、世界有数の原発事故を起こした東京電力福島第一原発。その設計や安全性の検証を担った東芝の元社員二人が本紙の取材に応じ、「設計時は、これほどの津波は想定していなかった」と証言した。東電の想定していた津波は最高で五・五メートル。実際には倍以上高い十四メートルを上回る大津波が押し寄せており、二人は設計に想定の甘さがあったと口をそろえる。

 取材に応じたのは、一九七〇〜八〇年ごろに同原発の安全性を検証した元技術者の男性(63)と、七一年から順次稼働した同原発1〜3号機と、5〜6号機の設計に加わった元設計者の男性(69)。

 タービンの安全性の検証に携わった元技術者は、原発の設計図の青焼きを見ながら「今回のような大津波マグニチュード(M)9は、想像もできなかった」と振り返った。

 元技術者は事故や地震が原因でタービンが壊れて飛んで炉を直撃する可能性を想定し、安全性が保たれるかどうかを検証。M9の地震や航空機が墜落して原子炉を直撃する可能性まで想定するよう上司に進言した。

 だが上司は「千年に一度とか、そんなことを想定してどうなる」と一笑に付したという。

 元技術者は安全性を検証して報告したが、建設時にどう反映されたのか知らない。「起こる可能性の低い事故は想定からどんどん外された。計算の前提を変えれば結果はどうとでもなる」と、想定の甘さを懸念する。

 元設計者は六七年、東芝に入社。日本の原発黎明(れいめい)期に原子力機器技術部に配属され、七一年から順次稼働した福島第一原発1〜3号機と、5〜6号機の設計に参加した。原子炉周りの残留熱を除く熱交換器や、海水ポンプの設計に携わった。

 元設計者は「当時は『M8以上の地震は起きない』と言われ(十メートルを超えるような)大津波は設計条件に与えられていなかった」と証言。

 「女川や柏崎刈羽など、ほかの原発でも、非常用電源などでは同様の弱点を持つ」と指摘した。

東電の想定していた津波は最高5.5mとあるが、後の1993年に起きた北海道南西沖地震では最大30mにもなったという。
北海道南西沖地震(奥尻島津波)|現代キーワードQ&A事典

とくに外海に面し、奥にむかうほど急に浅く、狭くなる入江──海底がメガフォンを縦に半分にしたような形になっている場所では、入江の奥で波が集中し巨大な津波になります。奥尻島のようにまわりがすべて海という場合も同様で、津波の高さは青苗で約一〇メートル、島の西海岸では最大三〇メートルに達しました。大津波警報を出したならば同時に、場所によっては一〇メートルないし二〇メートル以上の津波が襲う恐れがあると伝えるべきでした。

北海道南西沖地震についてインターネット検索していたら、下記のページも見つかった。奥尻島や近辺の被害を伝える写真は今回の津波災害とかぶる。そして末尾には日本がこうむった歴史的な津波災害がまとめられている。
北海道南西沖地震、現地調査写真リポート 奥尻島 山村武彦 奥尻島

1983年5月の日本海中部地震は死者100人を出しました。襲った津波の高さは最高14メートルもありました。1896 年と1933年の三陸地震では、高い所で20メートルを越す津波が襲いかかって、22,072人と、3,064人の犠牲者を出しました。また1944年の東南海地震と1946年の南海地震でも10〜24メートルの大津波で多くの死者を出しました。
1960年に日本の裏側チリで起こった地震(M8.6)のときは、地震から22〜23時間かかって日本の太平洋沿岸を津波が襲い、死者行方不明139人の犠牲者を出しました。逆に三陸地震の時にはハワイ、北米を津波が襲っています。ちなみに日本で最大の津波は、1896(明治29)年6月15日三陸を中心に襲った「明治三陸地震津波」と呼ばれる巨大津波の38.2mの波高です。

千年に一度どころか三十年に一度くらいの頻度で10m以上の津波が日本を襲っているといっていい。原子力発言所の耐用年数は四十年とされるから、使用中に1度は同じ国で想定外の津波が襲ってきたわけだ。
もちろんこれまでは津波が襲っても原子力発電所に影響しない場所でだったのだろう。同じ国といっても日本の海岸線は広い。
しかしながら、ざっと日本における津波襲来の歴史をふりかえった限りは、東電の想定はリスク計算を見誤っていたとしか思えない。千年に一度に備えるべきという話ですらなく、千年に一度という認識が誤っていたという域の話だ。