王兵『苦い銭』(2016)

「男と逃げるんじゃないよ」

ある一室でのやりとり。どうやらここにいる子どもたちが家族の為に出稼ぎにいくらしい。雲南省からバスや電車を乗り継いていき、丸一日かけて個人経営の縫製工場が立ち並ぶ湖州に降り立つ。そこでは、出稼ぎに行った先でお前はとろいので首だと宣告される男や、「殺してやる!」と喧嘩する若夫婦、「このハサミは社長が研ぐべきだ」と酔っ払いながらハサミを持ち歩きながら女に絡む男…など、出稼ぎ労働者たちを記録する。

王兵がドキュメンタリーといった体制を取りながらも、優れた作品を撮るのは、そこにカメラを置いていれば(回していれば)何かが起こると信じているからではないだろうか。それと優れたロケーション選び。初めての映画とされるリュミエールの『工場の出口』(1895)があるように、人が騒がしくうごめく姿を見ることは端的にいって面白い。ワンビンの監督デビュー作が巨大な工場での出来事を記録した『鉄西区』(2003)だったことも頷ける。『鉄西区』は9時間にも及ぶドキュメンタリーであるが、まるでアトラクションのように人や機械、列車は動き回り、見ていて飽きない。『苦い銭』も頭がおかしいな?と思える人々の動きが面白いし、ロケーション選びが素晴らしい。街灯や看板のネオンが濡れた路面に反射する夜のシーンは魅惑的だ。

また、貧困と背中合わせになりながらも、そこにいる人々は苦悩でとどまるといったことはせず、仕事がなければ仕事を探しに出かけるし、長時間労働を強いられるなら悩む暇もなく――正確には撮影していない、もしくは編集している――地元へ帰ったりする。映画が面白くならないのは、「真剣に悩んでいます」と見えるような演技をダラダラ撮影した停滞する時間であり、反復に繋がらない画面を面白みもなく続けてしまうことだろう。卓越した技術を持つかのフレデリック・ワイズマンもまたカメラは対象に影響を与えないといっているように、カメラを置けば何かが向こうからやってくる。*1そんな感覚を王兵の映画にも感じる。それに、王兵は人を撮っているとともにその場所(環境)を正確にフレーミングしているのがいい。

面白い現象が起こるまでそれを撮るおよび編集する。撮影しているものがどういう効果を得ているのかよく理解している。と感じる。理由もいわず、支離滅裂に「ここから出ていけ!殺すぞ!」と妻を脅す夫の姿が魅力的なのはその執拗な反復と、後々その夫婦が路上で横並びに座り、「家を出てから稼いでないな…」とため息をつく姿――支離滅裂な喧嘩姿を見た私たちにはそれでも付き合っている(和解したかどうかはわからないが少なくても担保されている)という差異として認識する――を撮影していることだろう。それと何よりも、どの構図もキマッているのが端的な面白さにつながっているように思える。いかに映画は要素をそぎ落とし、シンプルに構成してもここまで面白くなると。やはり王兵はブレない。

鉄西区 [DVD]

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*1:ここには劇映画で役者が行う演技と、ドキュメンタリーで素人が撮影されることについておおよそこんな注釈では説明しきれないこと(またそのすべてを私が説明できるわけもなく)があり、ここでは説明を省いている。たとえば監視カメラで知らない間に撮影されている人もまた演技をしているのではないか?といったことなど。