未来のいつか/hyoshiokの日記

hyoshiokの日々思うことをあれやこれや

読書論、小泉信三著、濫読日記風、その49

読書論 (岩波新書)を読んだ。

「人生は短く、書物は多い。一生のうちに読みうる書物の数は知れている。それを思えば、いつまでも手当たり次第に読んでいるわけにはいかない。どうしても良書の選択が必要になる。何をいかに読むべきか。著者多年の豊かな読書体験と古今東西の優れた知性が残した教えに基づいて、さまざまな角度から読書を語る。」(表紙カバーから)

初版が出版されたのが、1950年。1950年というのは太平洋戦争終戦後わずか5年なので、読書環境という意味では必ずしも恵まれていなかった。新版まえ書きで、戦後間もなくだったので、手元に蔵書もなく、引用もままならなかったという事情を記している。*1

第一章、何を読むべきか、第二章、如何に読むべきか、第三章、語学力について、第四章、翻訳について、第五章、書入れ及び読書覚書、第六章、読書と観察、第七章、読書と思索、第八章、文章論、第九章、書籍及び蔵書、第十章、読書の記憶、引用書目

網羅的な読書論になっていて、小泉の豊かな読書体験がうかがい知れる。明治の知識人は欧州に留学し、語学も英語はもとより、仏語、独語なども嗜んだようだ。

小泉が塾長時代の工学部(当時は藤原工業大学)の学部長谷村富太郎が、実業家方面から申しだされる、すぐに役に立つ人間を作ってもらいたいという註文に対し、すぐに役に立つ人間はすぐに役に立たなくなる人間だと、応酬して、同大学において基本的理論をしっかり教え込む方針を確立したとある(12ページ)

同様の意味において、すぐに役に立つ本はすぐに役に立たなくなる本である(同ページ)

私もこのフレーズが好きなのであるが、その原典が本書であることを初めて知った次第である。

古典というものはすぐに役には立たない。しかし、すぐに役に立たない本によって、今日まで人間の精神は養われ、人類の文化は進められてきた。

私は今までの人生の中で古典を読む経験が圧倒的に少なかったと自覚している。それが今の濫読につながっている。

如何に読むべきかという方法論において、再三反覆して読むことを勧めている。やや時を隔てて読むことによって、自分の成長を認めるのも愉快であるとしている(29ページ)

読書と観察で自分の観察力を不足を痛感したという(69ページ)

小泉の「アメリカ紀行」で観測力の不足を感じ、ゲーテの「イタリア紀行」を読んで感心したことを記している。

同様に読書と思索についても考察している。「吾々は読書によって思考を促され、また導かれる」(78ページ)
その例として、漱石の「文学論」を引いている。(88ページ)

明治の文化人の凄みを感じさせる一冊である。彼は経済学者なのであるが、文学にも造詣が深い。小泉信三全集の目次を読んでみたいと思った。

一応、慶應義塾大学を卒業したので名前は知っていたけど、著作を読んだのは初めてだった。不勉強でごめんなさい(ぺこり)


濫読日記風