行方不明になっていた埼玉県朝霞市の女子中学生が2年ぶりに保護された事件の全容は、いまのところまだよくわかっていない。
よくわかっていないことがその通りなのだとして、この事件を、果たして、当事者でない私たちがよくわかるべきなのかどうか、私には、そこのところがよくわからない。
まわりくどい書き方をしてしまった。
つまり、何を言いたいのかというと、私は、こういう事件が起こる度に、事件の詳細を報じることに果たして公共性があるのかを、いつも考えこんでしまうということだ。
既に、事件の背景や細部について、あまりにも多くの憶測が垂れ流され、必要以上にあけすけな推理や分析がやりとりされている。個人的には、被害者の少女が無事に保護され、容疑者の身柄が確保された旨が既に報じられている以上、これより先の報道はとりあえず不要なのではあるまいかと考えている。
容疑者を犯行に至らしめることになった文化的な背景や、監禁生活の様相についての細々とした推測は、不要であるのみならず、有害だ。
ニュースを享受している人々による粗雑な当て推量や、仮定の物語や、憶測から発する魔女狩りや、不安を煽り立てる偏見混じりのプロットや、胸の悪くなるような猟奇的な描写は、被害者やその家族にとって、また、よく似た年齢の子供を持つ親やほかならぬ子供たちのために、有害なだけではない。容疑者に近い年齢の学生や、同じ趣味を持っていると目される広範な人々にとっても、事件のもたらす雑多な言説が新たな脅迫や偏見を生み出しつつある。とすれば、出歯亀とパパラッチ以外には誰も得をしないこの種の見世物小屋ライクなニュース商売は、早々に店を畳んで然るべきだ。
私自身も、自前の推理を披露することは控えるつもりでいる。
ここでは、事件報道の周辺で起こっている言い争いについて考えるつもりだ。
今後、捜査の進展に伴って事件の解明がある程度進み、裁判の進行が一段落したタイミングでなら、あるいは、事件の全体像をあらためて伝えることにも一定の意義はあるだろうし、その時期になれば、被害者やその家族の生活も、多少は落ち着きを取り戻しているかもしれない。
が、被害者の少女のとりあえずの無事が確認され、容疑者が逃亡する可能性もほぼ無くなっている現在の状況で、この件について緊急に報道せねばならない必然性は無いはずだ。まして、被害者は入院中であり、容疑者についてもいまだに警察からは何の発表もされていない。
つまり、言葉を換えて言うなら、現在配信されたり放送されたりしている事件の関連情報は、事件解決のための情報収集でもなければ、同型の事件の再発を防ぐための啓蒙の意味でもない、単なる興味本位の暴露と憶測に偏した下世話狂言なのであって、そんなものに鼻を突っ込むのは恥辱である。と、一流オンラインビジネスマガジンの読者であるならば、ぜひともそう考えなければならないということだ。
警察なり裁判所なりが事件を解明するのは、これは当然の話だし、そうせねばならない仕事でもある。
ただ、事件を取材した報道関係者が、知り得た事実をすべて明らかにすべきなのかどうかについては、議論が必要だ。当然、その際には、商業的な嗅覚よりは、人権上の配慮が優先されなければならない。
たとえばの話、誘拐犯やハイジャック犯が被害者や人質を解放していない段階では、報道協定に従って、複数の報道機関が記事の配信や番組の放送を自粛するケースがある。
この種の報道協定は、なにより人質の生命を危険にさらさないために結ばれるもので、事実、これまでにいくつかの事件で、功を奏している。
今回のケースでは、被害者の生命の安全はなんとか守られている。
とはいえ、被害者が失われた家族の時間を取り戻し、社会復帰を果たすためには、なお多大な時間が必要なはずだ。そのために、静かな環境が不可欠であることもはっきりしている。
とすれば、現状は、人質の安全を防衛することに準じた報道協定が結ばれてもそんなにおかしくはない状況だ、と言っても良いはずだ。
症状の重い入院患者について、病院が面会謝絶の措置を講ずるのは、病院側が、回復のために安静が必要だと判断しているからだ。
よく似たなりゆきで、今回のような事件について、警察なり裁判所が、報道機関に対して取材や報道の自粛を要求することがあったのだとしても、私は、状況から考えて、そんなにスジの違う話だとは思わない。
もちろん、報道機関には「報道の自由」があるのだろうし、「知る権利」も、無闇に否定して良い権利ではない。
が、報道の内容に公共性があるのならいざ知らず、本件に限って言うなら、被害者の監禁のあり方の詳細を暴き立てて周知せしめることに、特段に緊急の要請があるようには思えない。
とすれば、これ以上の取材は、できれば自粛するべきところだ。
ただ、公共性は無くても、需要はある。
わかりきった話ではあるが、商業マスコミは公共性のために記事を配信しているわけではない。彼らは、どちらかといえば商売のために情報を売っている。だからこそ、事件は取材され、記事は作られ、読まれ、結局のところ、世界を動かしている。
取材される側には、取材されたくない事情があり、報道してほしくない気持ちがあるのかもしれない。
が、取材する人々には取材したい意図があり、報道したい欲望がある。
というのも、この種の監禁事件は、読者の興味を強く誘引するコンテンツだからだ。
その証拠(というわけでもないが)に、週刊文春の本日発売号の見出しは、
《美少女(15歳)を2年間監禁 千葉大生(寺内樺風23歳)の歪んだ情欲》
となっている。
見出しのアタマが「美少女」で、最後は「情欲」である。
昭和の成人映画と見まごう、見事な扇情ジャーナリストぶりだ。
個人的には、単に「少女」とせずに「美少女」という映像喚起的な語を選んだ修辞法に、記事の消費のされ方への編集部の強い誘導の意図を感じる。
行間から
「へい、いらっしゃい」
というダミ声が響いている。
というわけで、ニュースバリューはゼロでも、記事としての商品価値が一級品である以上、記事は万難を排して書かれなければならないわけで、今週の週刊誌は、たぶん、どこの会社のどの雜誌を見ても、間違いなくこの事件がページを専有することになるはずだ。
もうひとつ、私が注目しているのは、事件の外形的なありかたとは別に、第一報が伝えられて以来、
「少女はなぜ2年間も逃げられなかったのか」
というポイントについての議論が白熱している点だ。
個人的に、この議論の行方には、大いに注目している。
というよりも、こんな瑣末なポイントに関して議論らしきものが成立してしまっていること自体に、ちょっと驚いている。
このことは、「少女」という存在をめぐって、私たちの社会が形作ってきたイマジネーションが、いかに危うい成分を含んだものであるのかを、雄弁に物語っていると思う。
たしかに、報道されている断片から判断するに、少女は、鎖に繋がれていたわけではなさそうだ。それに、厳重な座敷牢に監禁されていたのでもないように見える。
とすると、2年間の間、彼女が逃げずにいたことを不自然だと考えるテレビ視聴者や新聞読者が出てくることは想像がつく。
ここまでは良い。
問題なのは、その結果として出てくる
「少女はなぜ逃げなかったのか」
という問いが、被害者である少女自身の責任を追及する言説や、少女と犯人の間に人間的交流があったとする物語を採用する見方や、少女の性格的偏向や彼女の家庭の特殊さを言い立てるタイプの分析に着地している点だ。
いずれも、無責任かつ有害な言葉であり、暴力と呼ぶことさえできそうなお話だ。
似たような言葉は、ネット上の匿名の悪い子ぶりっ子だけでなく、テレビ番組に出演しているコメンテーターや公共のメディアで発言する有識者の口からも漏れ出てきている。
なんとバカな話だろうか。
この点については、第一報が報じられてすぐ、幾人かの専門家が、SNS上で声をあげていた。
「監禁されている子供が、抵抗の自由を失うことは、むしろ必然で、その点に疑問を呈する言説は、そのまま被害者への心ない仕打ちだ」
「被害者が逃げなかったことについて、被害者を責めるのは見当違いであるのみならず、暴力だ」
「監禁下の環境にある子供の行動や心理について、外部の素人が軽々しい言葉を発するべきではない」
「少女が2年間逃げなかったことを理由に加害者との間の心の交流の物語を妄想する人々こそ、自分の心に歪みがあることを自覚するべきだ」
と、彼らは繰り返し「逃げられない」ことの必然性を強調していたのだが、この声は、そんなに広い範囲に届いたとは言えない。
以下のリンクは、武蔵大学社会学部教授の千田有紀さんによるこの事件の解説だ。
《女子中学生監禁事件、「なぜ逃げられなかったのか」という「理由」を問うことは暴力である》
と、タイトルにある通り、少女の立場に立って、監禁下の状況を読み解いている。
事件の背景を考える前提として、ぜひ読んでおくべき文章だと思うのだが、このリンク先は、記事本体もさることながら、コメント欄がなかなかすごい。
本稿執筆時点で、164件ほどのコメントがついている。
ひと通り読んで、暗澹たる気持ちになった。
私とて、ヤフコメをそのまま世論だと思うほどの世間知らずではないが、それにしても、現実にこういう文章を書く人間がこんなにたくさんいる(もちろん、全員ではない)事実を目の当たりにすると、やはりそれなりのショックは受ける。
私個人の細かい感想は述べない。
ぜひ、読んでみてほしい。
くれぐれもここに書かれている言葉が、現在の日本人のそのままの世論だとは思わないでほしいのだが、それはそれとして、読んでびっくりしてみてほしい。この国で犯罪被害者になることが、いかに絶望的な体験であるのかがよくわかると思う。
なぜなのか、小学生の頃に飼っていた熱帯魚のことを思い出した。
グッピーのような魚でも、過密飼育下では、弱った個体を全員でつつき殺すみたいな行動をとる。
これはもしかすると、われわれの国はもう少し人口が減った方が良い、ってことなのかもしれない。
そこまでは言い過ぎだろうか。
ならば、せめて“弱った個体”になる経験が、我々には必要なのかもしれない。
通勤電車でつつき回されております。
当「ア・ピース・オブ・警句」出典の5冊目の単行本『超・反知性主義入門』。おかげさまで各書店様にて大きく扱っていただいております。日本に漂う変な空気、閉塞感に辟易としている方に、「反知性主義」というバズワードの原典や、わが国での使われ方を(ニヤリとしながら)知りたい方に、新潮選書のヒット作『反知性主義』の、森本あんり先生との対談(新規追加2万字!)が読みたい方に、そして、オダジマさんの文章が好きな方に、縦書き化に伴う再編集をガリガリ行って、「本」らしい読み味に仕上げました。ぜひ、お手にとって、ご感想をお聞かせください。
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この記事はシリーズ「小田嶋隆の「ア・ピース・オブ・警句」 ~世間に転がる意味不明」に収容されています。フォローすると、トップページやマイページで新たな記事の配信が確認できるほか、スマートフォン向けアプリでも記事更新の通知を受け取ることができます。