無意識日記々

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焦りまくるヒカルママの姿が目に浮かんだわ


今回明らかになった事実の中で殊更強力だったのが、「ダヌくんは、ママの離婚歴が2回あるのを知らなかった」話ではなかろうか。


どうやら、ヒカルママの口ぶりからするに、ダヌくんの「どうしてうちはママとパパが別々に暮らしているのか」という素朴な疑問に対して、かなりシリアスに返答している模様。何歳くらいの幼さで初めて話したかはわからないが、結婚と離婚という概念から諭さないといけないとすると、慎重になるのも無理からざるところ。まぁそこまではいいとして。


ところが、どうやらかなり呆気なくヒカルママは自身の離婚遍歴をポロリと溢してしまったようで。恐らくダヌくんも時折会うパパとの関係性から離婚というものを実感に落とし込んでいただろうところ、いきなり見知らぬおっさんご登場である。ちょっと恐怖に似た感情も生まれたかもしれない。何しろその1回目の結婚と離婚の事実自体を知らなかったのだからその瞬間には「もしかしたら生き別れの兄姉がいる…?」とか想像をはたらかせてても何ら不思議ではない。小さい子でも童話やアニメでそういうのは学習してたりするからね。いやはや、なかなかにショッキングではあるまいか。


そこからのヒカルママによるダヌくんへのメンタルケアは大変な苦労があったのではないかと推察される。ヒカル自身は「身から出た錆」と思ってたかもしれんがね。やれやれ、その次にキコパパと会った時にダヌくん、どんな顔をしていたのやら。


そんな家庭の事情に踏み込むつもりはもちろんなくて(既に大概話題にしとるがな)。遠くから眺めてるリスナーとして私たちがここで認識しておきたいのはつまり、


ダヌくんはまだネットでママの事を詳細に調べた事がない」


という事実である。まぁ、日本のWikipediaみてもサラッと流されてるし、英語版に至っては離婚の話出てない?くらいなので、かなり詳細に調べないとわからない事実ではあるのだが。少なくとも、「ママのファンだからなんでも知りたい!」的なテンションではなさそうだ。


となると、うちらが彼のことを親しみを込めてダヌパと呼んでるのも知らないかもしれないのか。それも時間の問題だろうけど、ひとまず現時点では、ね。ただ、既に『パクチーの唄』『BADモード』『気分じゃないの(Not In The Mood)』といった楽曲には参加してるので、いつ反応が気になってエゴサーチするか、もうしてるかは、わからない。いずれにせよ、将来、彼に検索された時に読まれても構わないトーンで、ダヌパの名前を出してあげておくのが、ファン&リスナーとしてのマナーなのかしらね、と思うのでありましたとさ。

SF="Dressed-Up Album" ?


発売されて全編を聴いて以来、『SCIENCE FICTION』を“ベスト・アルバム”と呼ぶ気がすっかり失せてしまったという話は既にしてきているが、じゃあ代わりに何て呼べばいいかというのは結構頭を悩ませている。


(ここでかなり古い例を挙げるが私の原体験の一つなので少々ご勘弁を)


その昔、1989年(あらもう35年も前ですか)にTM NETWORKが「DRESS」というアルバムを発表しまして。今思えばデビュー5年目オリジナル・アルバム6枚でこれをリリースしてたって結構とんでもない事なんだけど、当時はただひたすらカッコいいアルバムだと何度も聴き返していたのです。


その中身はというと、過去の5枚のアルバムから人気曲を「プロデュースし直して」収録した彼ら(というか小室哲哉)曰く“リプロダクション・アルバム”と呼ぶものだった。単なるリミックスに留まらない、数々のプロデューサーを招聘して楽曲を再構成して貰うという、当時中学生だった私にとっては斬新極まりない発想を詰め込んだ一枚だった。今思えば、この後90年代に「プロデューサー・ブーム」を巻き起こす小室哲哉は、逸早くプロデュースの重要さを見抜いていたともいえる。まぁソロアルバムを自分で歌っちゃう脇の甘さも見せてたけども。


そういう作品を幼い頃に通過している為、『SCIENCE FICTION』もそれに近いコンセプトかなと当初は解釈しようとしたが、根っこの思想がまるで異なる事に気がついて辞めた。「DRESS」も、発想の斬新さと技術の興味深さが漲っているとはいえ、結局は「昔の曲を聴こう」というスタンスなのは変わらず、つまり、変則的とはいえそれはベスト・アルバムの一種であると言って良かった。実際自分は「Gift For Fanks」(1987年に発表された至って普通のTM NETWORK初期ベスト・アルバム。ただ、“Get Wild”がアルバム初収録作品なので必携だった)より先にこの「DRESS」を聴いていた為、彼らの過去の曲を覚えたのはこちらだったので、よりこの作品をベスト・アルバムだと認識する気持ちが強い。


しかし『SCIENCE FICTION』は、前にこの作品のタイトルは「SCIENCE FICTION 2024」の方が良かったんじゃないかと主張した通り、「現在」に主軸がある一枚だ。「過去の偉業を振り返ってみよう」という態度は、少なくとも作り手側には希薄だったと言える(聴き手側は好きに捉えたらいいもんね)。そうね、描写するなら


「様々な段階の“途中まで作ってある曲”を取り上げて、今の感性で完成までもっていってみたアルバム」


という風に、なるかなぁ?


つまりこうだ。普通のオリジナル・アルバムは、総ての曲を、何もない状態から、作詞作曲から始める。そうしてそこから、編曲して歌唱して演奏して、それらを録音してミックスしてマスタリングして、完成だ(大雑把にいえばね)。だが『SCIENCE FICTION』では、この各段階が予め何ステップか終わってる素材を使って新作を作った、という言い方をするべきではないかなと。即ち、


・作詞作曲すら始まってなかったのが新曲。

・作詞作曲まではあり物の素材を使ったのがRe-Recording曲。

・作詞作曲編曲実演録音まではあり物を使ったのが2024 Mix曲

・作詞作曲編曲実演録音ミックスまではあり物を使ったのがリマスター曲。


という具合。今まで散々この日記で繰り返してきた話ではあるけれど、その見方を完全に「現在」からの視点からに座標変換して読み換える事が肝要だ。それによって得られるのは、詰まる所リスナーが、


「2024年の宇多田ヒカルの作詞作曲」

「2024年の宇多田ヒカルの編曲と歌唱」

「2024年の宇多田ヒカルのミックス」

「2024年の宇多田ヒカルのマスタリング」


をそれぞれ「分けて」認識出来るという点。これに尽きると思われる。


普通の新作、オリジナル・ニュー・アルバムだと、このように分解して分析するのは時に難しい。何しろ、作曲も編曲も歌唱も全部その時の最新なので、それらの特徴や特性はまとめていっぺんに提示されるからだ。


しかし『SCIENCE FICTION』では、過去の音源と比較する事で、それぞれの各段階を分けて認識して分析する事が可能となった。これは地味だが物凄く斬新かもしれない。


というのは、宇多田ヒカルの音楽的才能の多彩さを、今までは一括して受け取っていたのが、今やこの作品によって


「作詞作曲家宇多田ヒカル

「編曲家宇多田ヒカル

「歌手宇多田ヒカル

「ミックスアドバイザー宇多田ヒカル」(技術的な事はしないそうなので、助言者ですね)

「マスタリングアドバイザー宇多田ヒカル


といったそれぞれの仕事の特色として浮き彫りにする事が可能になったからだ。


ここに関しては難しく考える事はない。リレコーディング曲を聴いて「昔より爽やかになった!」と思えばそれは「2024年の編曲家宇多田ヒカルと歌手宇多田ヒカルは昔より爽やかになってる」という意味だし、リミックスを聴いて「昔よりもバックコーラスがよく聞こえる!」と思ったならば「2024年のリミックス・アドバイザー(要はプロデューサーだね)宇多田ヒカルは昔よりバックコーラスを重視している」という意味になる。それだけの事だ。


今迄は「音楽家宇多田ヒカルの現在の傾向」としておおまかに捉えていたものがより精細に各役割の特色として認識出来るようになる、それが『SCIENCE FICTION』というアルバムの勘所だとすると、じゃあこのアルバムはベスト・アルバムでなくて何と呼ぼうかとなったときにふと「着せ替えアルバム」という呼称に思い至り。“Dressed-Up Album"ですね。…あ。結局TM NETWORK の「DRESS」に近い呼び方になっちゃったw


これは単に服を着せ替えるだけに留まらず、誰に着せるかから自由自在な…と書く私に思い浮かぶのは、22年前のロング・インタビューの一節。


「そう、だから『ナイスバディだよね』っていうバービーちゃんの人形がそういう基準としてあって、そこにどんだけ格好いい服を自分が作って着せられるかっていうことではなくなってしまったの、もう。『そもそもどんな女の子に服を着せたいの?』っていうところから始まって。それまで誰にも『リカちゃんじゃなきゃダメだよ』って言われてたわけじゃないのに、『あ、勝手に自分でスタート地点を勘違いしてたのかな』って思うぐらい、今まで作業を始めるっていう気持ちだったところが、『それレースの途中じゃねえかよ!』っていう感じで、もう1回スタート地点を発見してしまって」

https://www.sonymusic.co.jp/Music/Info/utadahikaru/gallery/backnumber/interview2002/p10.htm


詳しくはリンク先を前後も含めて読んでうただきたいが、ここでヒカルが言う「スタート地点」を自由自在に取ったのが、『SCIENCE FICTION』なのだろうなと、今回はそう結論づけておきたい、とそういう話なのでありましたとさ。嗚呼、なんて自己満足オンリーな日記なの!

地雷という地雷


ヒカルさんが「EIGHT-JAM」で「地雷が増えた」という話をしていて、そうだよねぇ、人の心や発言で踏めるところ少なくなったよねぇと共感すると共に、「その比喩はありなのか?」とも私は思った。


少し話が逸れるが、前に「水曜日のダウンタウン」で、ゆっくりお喋りでお馴染みの戦場カメラマン渡部陽一氏をゲストで迎えた際、彼の仕掛けたドッキリに対して「渡部さんはどこで怒るかわからない。地雷が分からない。」というコメントが為された。それを聴いた松本人志がすかさず「渡部さんを例える時に“地雷”はやめた方が」とツッコんで笑いを巻き起こしていたのだが、このタイミングでこの切り返しが出来る頭の回転の速さと、笑いに持っていく為の声のトーンや切り出し方の微調整、つくづく笑いの天才衰えとらんなと痛感した。って、あたしもヒカルが「EIGHT-JAM」を観た時同様、切り出し動画を後から観ただけなんだけどもw


で、逸れた話を戻すと、そうなのよね、人によっては「地雷」という喩えも洒落にならんのだよな。戦場カメラマンなら本物の地雷を避けて、或いは被害を目の当たりにして生きてきてるのだろうし、人類の歴史上でもかなりのシリアスな被害を振り撒いてきた装置のようなので(それもまだまだ現在進行形で)、これを笑いにもっていくのは結構時と場合によるかもしれない。日常生活に地雷のない人にとっては作劇やゲームの中の存在でしかなく、踏み抜いたらゲームオーバーくらいのものでしかなくもあり。言葉の意味する所は、その放たれる場所次第という事だわな。


唐突に言葉狩りをしたいわけではないのだけど、戦争のニュースがトップに来る事がかなり多い今のご時世だと、地雷という言葉がそれこそ地雷として気をつけるべきワードになるのかならないなか、という判断の中で、ヒカルは今はOKを出したのだな、そして番組スタッフもこれがマズいという受け取り方をしてないのだな、という現況把握はできた気がする。


私はこういう「言葉のあや」に敏感な方だと思う。なぜなら人より遥かに失言が多いタイプだから。気にせざるを得ないのだ。つまり、根が鈍感だから敏感になるように自分を仕向けてるだけで、本質的には全くそういうことに疎い人間だったりする。だからこそ、たとえば誰一人噛み付いていない「地球を回す力」という表現が気になったりもする。今回の"地雷"もまたそういう「鈍いヤツの行き過ぎた気にしぃ」でしかないのだけど、果たしてヒカルさんは、地雷という言葉を使った時にそれが踏んだ人の足を吹っ飛ばす兵器の事だと自覚してたのかどうか。それはちょっと、気になったかな。

セレブレーションの解釈違い


「EIGHT-JAM」に於いて、『traveling (Re-Recording)』を共同プロデュースしたTakuさんが、「"お祝い(Celebratory)"だというからハッピーなトラベのデモを送ったら解釈違いだった(苦笑)」というエピソードを披露していた。いやはや、同情しちゃったな。


あたしも同じような解釈違いをしていたので。


世代が違う人はわからんかもしれんが、たとえばクール&ザ・ギャングの「セレブレーション」(1980年の全米1位曲)。ありゃ「パーティだ、みんなではしゃごう!」って歌詞でな。あれを「お祝い」って日本語にすると「何のお祝い?」って訊かれちゃうよね。もちろん何かを祝っててもいいんだけど、どちらかというと「この楽しい時間に乾杯!」みたいな意味での“お祝い”でしょ。


もういっこ、PFMの「Celebration」はどうだ?(イタリアのプログレ) あの曲はイタリア語版だと“La Festa"、「お祭り」なのよね。つまり、「お祭り騒ぎ」「祝祭ムード」のことなのよセレブレーション。


って、読者に通じそうにない例を2つもあげてしまったけど、要するに少なくとも年寄りな音楽リスナーにCelebration, Celebratoryって言葉を与えたらそういうハッピーな馬鹿騒ぎみたいなイメージが最初にくるのよ。だからTaku さんがそういう解釈するのもしゃーなしだったかなと。


何よりそもそも、貴女自身が『Celebrate』っていうアゲアゲな曲を作ってるからさ。これって何かをお祝いするってより、イビザのイメージで朝まで騒ごうみたいな、そういう曲調と歌詞だよね? Takuさんもこの曲が念頭にあって『traveling』の“Celebratory"をそう解釈したと思うんだけども。そこの梯子を外しちゃうのは可哀想だったような。


で、私の話。前に『Electricity』のラストの歌詞『I just wanna celebrate with you』を「これ自動詞だから“ただただみんなでコンサートで盛り上がりたい”って意味だろう」みたいな事書いたんだけど、ヒカルは、有働さんとのインタビューでも言ってた通り「25周年を一緒にお祝いしようね」という意図で付け足してたのね。あーTakuさんと同じような解釈違いであったか、とそういうことだったのでした。


まぁでも、どっちでも大して変わんないといえば変わんないかも。ライブ会場で祝うんなら燥ぐもんね。時間の限り集まっては馬鹿騒ぎして25周年を祝いたい、ってところです。んでTakuさんのそのハッピーなトラベのボツテイク、いつかどこかで聴けないかしらねぇ?

噂の緑(色な綾鷹の広告 )を観に来ました


そういえば私も週末に品川渋谷新宿とプロモーション稼働をみてきましたよ。発売後1週間以上経ってるというのにまぁ広告の分厚いこと。品川で山手線に乗ろうとしたらでっかい綾鷹の宙吊り広告がどーん! 電車に乗ったら乗ったで車内画面では綾鷹トラベCMが矢継ぎ早。音が無くてもアガるもんだね。そして渋谷駅に降り立ったらハチ公口をぐるりと囲むようにまた綾鷹Hikkiがどーん!どーん!どーん! いや凄いね。タワレコ渋谷もまだ一階中央占拠してたしなぁ。新宿なんかデジタルサイネージで今度は『SCIENCE FICTION』の広告が打たれてる。タワレコ新宿のフロア以外でもSFが来るのでいやこれは街を歩いてたら宇多田ヒカルがベスト盤出したってイヤでもわからせられるわね。都会の広告事情、恐るべし。


だけど伊藤忠はみなかったなぁ。どっかにあったのかもしれないが、どちらにせよ綾鷹に圧倒される形ですわね。うむ、となると『Electricity』の露出が減るのでそこが残念!


日曜日のJ-Wave TOKIO HOT 100では5曲ほど同時ランクインしてたけど、いや凄い陣容だよね。オートマ、トラベ、マルセイユがそれぞれリミックス/リレコーディング/ニューエディット、だもんね。今回の物量には驚かされっぱなしですわ。あれだけお金のあった2000年前後でもここまでのプロモーションはなかったな。だからこそ、その『Electricity』への注目度が相対的に低いのが勿体無いのよね。


まぁ改めて言うまでもなく、ヒカルの場合アルバム曲をいつもone of themとして消費する事になっちゃってて、嗚呼シングル曲以外も素晴らしいのにって毎度忸怩たる思いに囚われるのが通例(『嫉妬されるべき人生』みたいな後追いタイアップとかもあるけどね)なんだけど、『Electricity』は「2024年の宇多田ヒカル」を最も表現してる楽曲なのだし、だからこそ、アルバムでは過去の曲を散々並べた最後に配されているんだから。幾つものワームホールを通ってのタイムトラベリングの旅から現代に帰ってきましたよの曲順になっとる(マルセイユはボーナストラック扱いとしてね)。まさにこのアルバムの主役。水戸黄門でいえば8時42分に出てくる印籠だ(あれがなければ御老公はただのじいさんだから印籠こそが主役よね)。それが折角タイアップをとったのに「オートマとかトラベとか懐かしいね」とか「First Loveをテレビで歌ってる〜!」とかの声に埋もれてるのは、これ誤算なのか何なのか。


でもま、今回のインタビューで最後の『I just wanna celebrate with you』の一節が、最後の最後に付け足された事が判明したので、やっぱりきっとここは「ツアーで会いましょう」のサインなのだと受け止めておきましょう。ベストアルバムを本編全編聴き切った人に対してのメッセージ・アピール。25周年をリスナーの皆と一緒に祝いたいと。アルバム制作がやっと終わろうとしていて、次のスケジュールが頭を掠めた。それがツアーリハーサルだったんでないかな? だから、最後にツアーを視野に入れた歌詞を入れてみたと。もしそうだとしたら、ますます『Electricity』は「2024年の今」たくさん触れ合うのがいい。てことで、テレビを見ない私が言うのは的外れ極まりないのだけど、伊藤忠さん、もっとプロモーション頑張ってね︎