佐藤亜紀『ミノタウロス』を読め!

  • 佐藤亜紀の『ミノタウロス』を読了してしまう。
  • 舞台は20世紀の初頭、暴力と混沌でぐっちょんぐっちょんの内戦時のウクライナだが、其処へ自動車、複葉機、タチャンカ、装甲列車、機銃掃射、モーゼルC96やらルガーP08アーティラリィやらがずらずら出てくる、誠にもって見事な「西部劇小説」だった。そして同時に、男と女の二種類しかいない人間と云う奴の底なしの愚かさと、一抹の、だが耐え難いほどの愛らしさ、さらに或る種の「救済」や「正しさ」を、政治的、倫理的、宗教的、あらゆる何とか的な正しさが崩壊し尽くした世界を舞台に、如何なる制約にも囚われることなく徹底的に描き取っており、それだけでなくすぐれてヴィヴィッドな、あらかじめ成熟を禁じられている青春小説でもある。三人の少年が地獄を転げ回る、ウクライナビリー・ザ・キッド21才の生涯なのである。
  • そう、フロンティアが既に終わった時代を舞台に、最後の西部劇を描いた『ワイルドバンチ*1の監督であるサム・ペキンパーがモスフィルムに招かれて、しかも映画の神様に愛されまくって撮りたいように撮った映画がもしあるならば、きっとこんなふうだ!?
  • 佐藤亜紀の小説を読むと困るのは、いつもしばらく、これだけ私が読みたいものをちゃんと書いてくれるひとがいるなら、わざわざじぶんで書くことは何もないなあと思ってしまうことであるが、兎に角、これは面白かった。世界文学の水準で存分に戦える傑作である。
  • 総合的には『1809』、個人的な趣味なら『戦争の法』がこれまでの佐藤亜紀の小説に於けるベストだが、『ミノタウロス』はそのどちらも満たしている。それどころか、当代きっての辛辣な批評家としての佐藤亜紀まで楽しめる。文章に曖昧なところはひとつもなく、簡潔で、しかも美しい。
  • また、ラスト・シーンの、まるで霊魂が骸から抜け出てゆくようなキャメラの動きなど、ぞくっとさせられる。『小説のストラテジー』で語られたところの、読み手の裡に深い感動や「苦難の浄化」を齎すのは、プロットや物語と云われているものではなく、記述の運動の超絶技巧であると云う摂理が、此処では見事に実現されている。
  • 佐藤亜紀は、遂に、やりたい放題やるようになったのだ。素晴らしい。
  • 兎に角、日本語で書かれた現在最良のものを読みたいと云う方は、ぜひお読みになるべき。映画を一本やめてお買い求めになる価値は充分にある。
  • しかし、いつもながら佐藤亜紀の音楽、特にワーグナーとオペラの扱いには愛があり、嬉しくなる。
  • 最高の小説を読み終えてしまい、何も読みたくなくなる。ウルリヒと云う名前に導かれて、ムージルの『特性のない男』でも読もうかとも考えるが、鞄に詰めてきた瀧口範子『行動主義 レム・コールハースドキュメント』を読み始める。
  • 花屋で小さな花束を買ってから、実家に行く。母の日に柚子が買ってきてくれたあれこれを届けるためである。外出していた祖母と家の近くでばったり。母は留守。
  • 猫が、何が気に入ったのか珍しく、コールハースの本を嗅いだり頭をぐりぐり押し付けたりしていた。しかも、これは実家を出てからずっとあとで気づいたのだが、中表紙の左下でファイティングポーズを取るコールハースに向けて、彼女は鋭い爪で一撃を放ったらしく、ページの真ん中が斜めに、ざっくりと切り裂かれていた。
  • 外出する祖母と一緒に出掛ける。駅へ向かう道で、帰路の母と遭遇する。
  • 今日の芍薬*2

*1:しかし、云うまでもなく『ミノタウロス』が『ワイルドバンチ』に比べて決定的に現代的であるのは、その圧倒的な暴力がウィリアム・ホールデンなどの老いを自覚し始めた男たちによってではなく、まだほんの子供たちによって行われると云う点である。其処には男の美学もノスタルジィも、耳掻き一杯も存在しない。これが佐藤亜紀の徹底である。

*2:http://f.hatena.ne.jp/ama2k46/20070526205331