というわけで、まずは托鉢の作法(P.118)から。
あ、あんたのために書評したんじゃないんだからねっ
ブッダという原典を、つれづれならぬツンデレに読み解くと、こうなるのだろうか。
ツンデレだけあって、真意をあからさまにすることはない。「密」教なのに「真言」宗とはこれいかに。
本書「蝉丸Pのつれづれ仏教講座」は、リアルな住職=リア住にしてニコ中な著者による仏教講座。そのニコ中ぶりは目次からも伺える。
目次- はじめに
- 第1章 仏教を読み解くキーワード
- 第2章 現代僧侶の基礎知識
- あの日聞いた丸儲けを僕はまだ知らない
- とある僧侶の食事目録
- 蝉丸Pの「そこからですか?」
- 心霊科学と外来種
- そんな供養で大丈夫か?
- ロード・オブ・ザ・葬儀~逝きて帰らざりし物語~
- ボクと契約して僧侶になってよ!
- だいたい明治のせい
- 海外仏教事情 前半
- 海外仏教事情 後半
- The way of the religion
- コラム/江戸時代を強いられているんだ!
- 第3章 もっと「仏教」が知りたい
- 付録/仏教用語プラス解説
- 参考文献と仏教書の読み方
- 寄稿
- 後輩君からの手紙1
- 後輩君からの手紙2
- あとがき
そんな説法で大丈夫か?
大丈夫、問題ない。
むしろこうして現代の文脈で、現代人に対して語りかけることこそ正道、少なくともブッダ・ウェイであったことはほぼ確実なのである。豪華絢爛な寺社の中で、異国語の念仏で百姓(ひゃくせい)を煙にまくことこそ邪道なはずなのだ。
本書の最初のQ&A「仏教はなぜ宗派が多い?」に対する「原作と二次創作の関係」というのは、ニコ中にとってはもっともしっくり来る解答だろう。仏教が正当性に対してやかましくなかったことも、それに輪をかけている。それが仏教が発祥国インドにおいて一旦滅亡してしてしまった理由でもあり、にもかかわらず日本を含め世界の各地で命脈を保って来た一因でもある。
P. 350開祖であっても、教団であっても、無常であることを示したインド仏教の面目躍如と見るか、何も身体を張ってオチをつけなくても…と壮大なギャグとして見るか難しいところです。
だからといってここまで「何でもあり」では何を信じていいかわからない、というのがパンピーの本音で、ましてや右の第3章の口絵みたいなことでは「何はともあれ坊主の言う事だけは信じてはならない」となってしまうのも当然の成り行きではある。
それでは一見「なんでもあり」の、「仏教、特に日本における仏教」にも、「それを仏教たらしめる、全仏教に通じるなにか」があるのだろうか。
それこそ、本書の主題であるというのが私の読み。
しかし、本書において著者は"That's Buddhism"をつまびらかにしない。そうであれば本書はこれほどの大著とはならなかった。その過程で「ピュアブッディズムばかりがブッディズムじゃないんだよ」と示しつつ、「そもさん、仏教とはなにか」という問いに対しては直答をあえて避けている。本書で紹介される仏教史が、前史とブッダの登場で終わっているのは実に象徴的だ。
あえて避けているといえば、なぜ著者が真言宗を選んだかという理由もあえて避けているように見受けられる。本書には「『日本仏教宗派のすべて』を買って来て、宗派ごとの特徴を調べた上で」とあるだけだ。「言葉だけじゃ伝わりっこない」の密教の面目躍如といったところだろうか。
「孔雀王」の読み過ぎという解答も否定し切れないのだけど…
P. 430願わくばこの功徳をもってあまねく一切の者に及ぼし、我らと衆生とみなともに、仏道に成ぜんことを!
本書最後のこの台詞と「生きとし生けるものが幸せでありますように」(Sabbe sattā bhavantu sukhitattā)に違いはあるのだろうか。
「言葉じゃ伝わらない」ことは、言葉を尽くしてはじめて伝わるものでもある。
それが、著者が440ページかけて成した空なのではないか。
Dan the Pagan
原作と二次創作の関係については、古代のインド人は、現実と事実と真実の区別がいたってあいまいだったといえると思います。禅定(瞑想による精神の集中)体験をどこまでも重視するインドの大乗仏教徒にとって、大切なのはどこまでも、真理と真実で、現実と事実は、たいした問題ではなかったのです。
そういうわけで、大乗仏典の文献学的、歴史的研究なんていうのは、本質的にはナンセンスもいいところで、天台大師が、法華経が釈尊のもっとも尊い説法であると宣言されたら、あとは、天台大師の「すべての苦しむ生きとし生けるものたちをいつかすべて救済してご覧に入れます」という、天台大師の釈尊に対する誓約を信頼して、天台大師に習って日々法華経を読誦するかしないか、問題は、自身の投企、これだけなのです。