『ポケットのなかの天使』 デイヴィッド・アーモンド

ポケットのなかの天使

ポケットのなかの天使


バスの運転士をしているバートと小学校の調理師をしているベティ夫婦は、一人息子を病気で失ってからずいぶん寂しい暮らしをしていた。
バートは、もともとバスの運転が大好きだったのに、いまや何もかもにうんざりしている。細かい区間の停留所ごとに乗ったり降りたりする乗客、ことに騒々しい子どもたちはひときわ忌々しいものだ。
そんなバートの胸のポケットに、あるとき小さな天使が入っていたのだ。白い服を着て、背中には二枚のはねをつけた天使。
カスタードや甘い駄菓子が好きで、よく笑い、歌い、ダンスをする天使。
決してお上品ではない天使。この天使は、言葉をしゃべらない(段々覚えてきますが)かわりにおならをするのだ。
天使が現れて、バートたちは忘れていた喜びを思い出す。
二人は、天使にアンジェリーノと名づけて、大切に育てようとする。


さて、この天使を、すんなりと受け入れてその存在を喜ぶ人たちがいる一方で、目の前にちゃんと見えているのに信じない人たちがいる。
イリュージョンとか、集団ヒステリーという言葉で決めつけたり、
「天使に適用する法律がない」という妙な理屈をひねり出したり、
〈きわめて重要な会議〉に夢中で、「どうでもいい、つまらないことを山ほど抱えて、頭が混乱してる」ために、目の前にいる天使などに関わっている暇がなかったり。
私が思い浮かべたのは、ファンタージェンを呑み込んでいく怪物「虚無」だった(エンデ『はてしない物語』)
堅実に生きているつもりのごく普通の人が、いつのまにか虚無にとりつかれている。それなのにちっとも気がついていない。そんなイメージ。
わたしの暮らしをふりかえりながら、自分はどうなのかな、と思ったりする。大丈夫なつもりだけど、本当はあまり自信がない。


天使を見たままに受け入れたのはバートとベティ夫婦、小学校の美術教師、バートの仕事仲間、小学校の子どもたち…
それから、実は、悪者たちも、(悪だくみ前提ではあるけれど)一番最初から見えるままを受け入れることができる人たちだったじゃないか。
そうしてみれば、この悪者たち、見えても信じない人たちよりも、話がわかりそうな気がしてくる。
かわいい物語だけれど、あちこちに印象的な言葉や場面が仕込まれていて、何だろうと考えてしまう。


ある人が、アンジェリーノを手のひらに乗せて、こう言った。
「幸運ね、わたしたち。こんな天気のいい日に、こんなにすてきな世界にいられるなんて」
美しいことばだなあ、と思う。
そこは特別な場所ではない。特別な時間でもない。当たりまえにある、自分を巡る世界。
ここにいられる喜びを、幸運を、しみじみと知らせてくれる存在があなたなら、天使、わたしのところにも来てくれたらいいなあと思う。
いいえ、もしかしたら、天使はもう、ここにいるのかも。このポケットの中に。