とあるアルファブロガーのSophisterei(詭弁)――あるいは正統的な暴力も暴力であることについて

 はじめに結論から書いておこう。「国家が暴力を独占する」の意味は、国家が自らの暴力の行使に対してのみ、正統性を付与するということである。国家というのは、征服によるものであれ、共和主義的な統合によるものであれ、その集団がある領域内を実効支配した時点で、定義上、その領域内には少なくとも国家に匹敵しうるような暴力を行使可能な集団は存在していないはずである。だが、国家はなお支配のために「暴力を独占」する。それは、自前の暴力組織にのみ正統性を与えることによってであって、そうやって正統性を与えられた暴力組織を「軍隊」や「警察」と呼ぶ。ウェーバーによればその正統性の源泉は、近代国家においては「合法性」である。その正統性(=合法性)に基づいてはじめて、政府は国家内の自律的な暴力集団を規制したり弾圧することができるのである。
 軍隊や警察は、人を殺しうる力を持っている。たとえ侵略軍から「国家を防衛」するためであれ、犯罪者をやむを得ず射殺するためであれ、「人を殺す」という意味において、その力は強盗が家の住人を殺す力と同様、「乱暴な力」に代わりは無い。軍隊や警察の暴力を強盗やギャングや左翼革命家の暴力と区別するのは、それが正統的なものされているかどうかの差異でしかない。
 まさに、振るわれている力がそれ自体としては違うものではないからこそ、たとえ正統的な暴力であってもそれが濫用された場合、ギャングや強盗や革命家とかわらないものになるのであって、だからこそリベラルな民主主義国家は軍や警察にフリーハンドの権限を与えず、シビリアンコントロールというかたちでたえずそのような暴力集団を監視するのである。
 というわけで、この記事
http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2010/11/post-669f.html
については、wikipediaならば[独自研究]タグをぺたぺた貼って終わりにしたいところである。だいたい、政治学社会学の専門家らしき人たちが「自衛隊暴力装置?当たり前でしょ?」ってみんないっているのに、お前は「社会学」の何なんだ、という感じではあるのだが、まあひさしぶりにこの人に付き合ってみよう。
 ドイツ語のGewaltという単語は、デリダも指摘しているように権力/暴力(合法的な暴力/違法な暴力)の両義性を持った言葉であって、「"Staatsgewalt"と呼ぶように基本は権力とその実体的な行使の意味があり、「乱暴な力」ということではない。」ということはない。もうこの時点から間違っているのであって、あとは全部間違っているのだが、いくつか指摘しておこう。ドイツ語でApparatといえばふつうは電話機とかそういった器械をさす。クラウン独和辞典では「1器具、装置、機械〜2組織、機構(例文ein militärischer Apparat:(組織としての)軍隊、3参考図書…)」とある。ドイツ語の単語を調べるのに「まず」英英辞典を引かれても困るのである。まあ少なくとも「バラバラであったものが特定の目的のために統合(独占)されるということが"apparatus"ということだ。」なんて結論は、その英英辞典からですら読み取れなかったが。
 最初に書いたように、統合と独占は違う。むろん独占するのだから、もしまだ領域内に国家に属さない暴力組織があったとするなら、(国家にとっては)何らかのかたちで統合あるいは弾圧する必要はあるだろうが、「独占」のために必要なのは、むしろ正統化のプロセスなのである。軍(自衛隊)や警察は「暴力装置」である。であるがゆえに「国家が諸暴力に晒されてしまう」の諸暴力が警察や自衛隊を意味するならそれは真である。ただ、それは国家によって正統付けられた暴力である。われわれは、どんなに治安がよかろうとも警察国家に住みたいとは思わないだろうし、どんなに強力な軍事力を持とうとも軍事国家に住みたいとは思わない。リベラルな民主主義国家では、それらの諸暴力に一定の規制をかけることまで含めて、「合法的な」暴力組織が正統化されるのである。
 ところで、軍隊も警察も、組織としては国家という組織の一部である。その意味では、国家そのものも「暴力装置」であることにかわりはない。しかし、だからといって警察(組織)や軍隊(組織)は「暴力装置」ではない、ということはできない。まして、それらが「暴力」そのものであるという解釈は導き出せるはずもない。サヨクはよく警察などを「権力」と呼んだりするが、それはある種のスラングであり、厳密に議論するなら、「暴力」も「権力」も同様に関係性なのであって、暴力それ自体がどこかにある、と考えるのはおかしい。それでも納得できないというなら、社会学辞典を参照しているのでここでも引用してみよう。

暴力装置 暴力を発動するため、諸機関が配置されていること。最高に組織化された政治権力である国家権力が、軍隊・警察・刑務所などを配置している状態などに用いる。現代ではこの装置が巨大化し、独走する危険性がある。

なるほど、この定義によれば、国家権力は暴力装置である。では「暴力を発動するため」の「暴力」とは何だろうか?警察や軍隊だとすれば、「警察や軍隊を発動する」となり、意味が通らなくなる。むしろ、その後半の部分と比較してみればわかるが、軍隊や警察は、「諸機関」と並列されているのである。つまり、国家は暴力を発動するために、警察や軍隊を配置しているのであって、「暴力」そのものではなく「機関」なのである*1。ところで、警察や軍隊だって、それぞれの暴力を「適切に」発動するために諸機関を置いている。つまりそのように組織を形成している。その意味ではもちろん「暴力装置」なのであり、その「暴力装置」が国家の意思から離れて、自律して行動してしまう危険性はつねにあるのである。
 したがって、finalvent氏が言うように、軍を志向性を持たない「暴力」それ自体とみなし、それを制御する国家のコントロールのみを考えればよい、という考えは逆に危険なのである。ウェーバーの時代にはまだ本格的なシステム論的な考え方は登場していないが、とはいえ彼も国家運営において合理的なシステムである官僚制が国家の手を離れて暴走する危険性を既に考慮していた。それが正統づけられた暴力であるがゆえに、その危険性を忘れたとき、シビリアンコントロールは単に手続き的な追認に堕してしまう。市民による不断の監視が必要なのである。
 さて、他にもおかしい部分はあるがまあここまで書けば、finalvent氏の議論が、論理のレベルで既におかしいことは証明されたと思う。しかし、なぜ彼(に限らず)は、自衛隊や警察を「暴力装置」であると認めたくないのだろうか?しかも詭弁を重ねてまでして、である。正統化された暴力が、他の無法者が繰り出すような暴力と、正統性(合法性)という薄皮一枚でしかつながっていないことは、ある種の人々を恐怖させるようである。ただし、だからといってそれを認めないということは、現に生じている、国家による内外における様々な不当な暴力を、認めないということになるのである。
 合法的なものこそが正統的なものであるというテーゼの危うさは、その後、様々な論者によって批判されてきた。C・シュミットはウェーバー的な社会学政治学を仮想敵のひとつとしており、「合法性と正統性」においてはっきりとそのテーゼを攻撃している。さらに、そのシュミットを反面教師としたJ・ハーバーマスは、正統化付与の条件として、合法性ではなく討議的コミュニケーションによることを提唱するのである。また、シュミットとお互いを認め合っていたといわれるベンヤミン*2、むしろ「暴力」の側から、その正統性についてアプローチするのである。
 こうした問題系から、「自衛隊暴力装置であって、それをシビリアンコントロールで監視する事が重要」というリベラリズムのテーゼにとどまらず、国家の行使する暴力について問い直しを行うなら理解できる。だが、そもそも、自衛隊や警察が行使する力は暴力であるということを認めず、正統な暴力は正統なのであると繰り返すだけでは、それは自己欺瞞といわざるをえないだろう。

*1:それぞれの諸機関をそれぞれ適切に配置することをわれわれはふつう組織化するというのであって、「状態」であって「組織」ではないという言説は詭弁の最たるものであろう。

*2:つまり反ユダヤ主義者と反ユダヤ主義によって殺された者の近接性をデリダは問題にするのであるが。