アニメキャラクターのパーソナリティ


キャラクターというのは実在はしない。
ただ、フィクションの魅力は、命のない形に命が吹き込まれることでもある。
実在はしないが命はある。


まあそこらへんの記号論的なこととかあるいはフィクションとはみたいな
一般論はおいておいて、アニメの話。


キャラクターが「生きている」と感じるためには
キャラクターのパーソナリティ・アイデンティティが必要だ。
そしてアニメにおいてそのパーソナリティを支えている二大要素が「声」と「絵」である。
この流れで「絵」の話でいえば、
一人のアニメーターが一人のキャラクターを担当するという
いわゆるディズニー方式は理に適っている。


この場合、アニメーターのパーソナリティが即ち担当キャラクターのパーソナリティとなる。
アニメーターの手癖、みたいなものも
キャラクターのパーソナリティとして許容しやすいというわけだ。


しかし、日本のアニメーションはそういうシステムを取っていない。
日本の原画マンの担当分けは良くて「機能別」であり、
原画マンはキャラクターのパーソナリティを保障するわけではない。
では誰がそれを担っているかといえば、一応は作画監督ということになるが、
作画監督がキャラクターのパーソナリティを完全に制御するのは難しい。


つまり、日本のアニメーションは「キャラクターのパーソナリティのために作画の統一感を出す」
ということにそれほど力を入れはしなかったのだ。


日本のアニメーションはキャラクターのパーソナリティよりも表現を重視したのだ。


よく、日本のアニメの対立構図として旧東映派と旧虫プロ派というのが持ち出されるが
どちらもキャラクターの統一にそれほど気を使ったりはしなかった。
表現の仕方は違えど、どちらも表現を優先していた。


その一方で、このパーソナリティのルーズな捕らえ方が
日本のアニメのキャラクターをより「リアル」なものにしていったという
逆説的な事実もある。


人間というのは、一つのパーソナリティで括れるほど単純なものではない。
凄い人あたりの良い人が、その日だけは凄く無愛想だったり、
昨日と今日で言っていることが違ったり。
不条理だったり不可解だったりする。
あるいは、もっと偶発的なことでいえば、
髭の剃り方が甘かったり、
化粧を失敗したり
洋服のセレクションがうまくいかなかったり
とか、
人間というのはそれほど統一性の取れた生き物ではない。


この「キャラ」の枠を飛び出るような表現が
日本では可能になった。
人間の持つ矛盾を取り込んだのだ。


かくして、日本のアニメのキャラクターは生々しく、より濃厚な命を宿るようになった。
次第に、アニメキャラクターは実在のものだと思うくらいの説得力を持つようになる。
しかし、またそこも人間の面白いところなのだが、
アニメキャラクターが実在のものだと思えば思うほど、
キャラクターのパーソナリティが欲しくなる。
自分が観測したその「人物」を証明する何かが欲しくなる。


パーソナリティを統一すれば、人間の一要素としての矛盾を失い実在感が薄れる一方で
実在感のキャラクターとして統一したパーソナリティを欲しがる。


それは適わぬ夢のようなものなのだ。