俺がタクトと五十嵐卓哉に求めていること


それは多分、群像劇なんだと思うんだ。
究極的には主人公がいなくても成立してしまうような作品。
例えば漫画「クローズ」の終盤みたいな。


視聴者は五十嵐卓哉の演出によって、
主人公に感情移入し肩入れをすることはない。
だからこそ作品の中でフリーハンドで居られる。


ウテナにおけるウテナは一人あの学園における異分子・外部要因だった。
そこを視聴者の導入のよりどころとした。
少女革命ウテナ」はまさしくウテナとアンシーの物語であった。


しかし、タクトにおけるタクトは違う。
別に彼だけが島の外部から来たわけではない。
部長もミセスワタナベも島の外部から来た者。
加えて、「印」を持った人間もタクトのみではない。
綺羅星に対抗しているのも彼だけではない。

タクトは榎戸脚本によってギミックこそ「ウテナ」「忘却の旋律」を彷彿とさせるものの
五十嵐卓哉の目指してるのははっきりと別ものだと感じられる。


五十嵐卓哉の目指しているものは、雑多な世界・広がりのある作品だろう。
セカイ系」とは真逆のアプローチ。
スタドラの世界はタクトが居なくても成立する。
当たり前だ、人間一人いなくなったとしても現実世界は続くわけだし。


そこを単純化しない。
主人公・タクトはあらゆる意味で作品の中心ではない。
様々な要素が絡み合って作品を形成している。


「登場人物ひとりひとりに物語があり、生活がある」


良く聞くような言葉だが、
結局は多くの作品において「登場人物ひとりひとりの物語」は
切り捨てられてしまう。


「この物語は主人公である「○○」の物語なので、彼らの物語は描写しなかった」


あるいはアマガミSSヨスガノソラのように
その一部分を「抽出」するという方法もある。
いわゆる「担当回」制度。


だがしかし、それはやはり単純化だ。
複数の人間の物語が同時に動き続けているのが現実。


その複雑に絡まった物語を複雑なまま作品にしてしまう。
それが俺がタクトと五十嵐卓哉に求めるもの